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笑 涯 楽 習 の 講座


 第一回『文落連 笑涯楽習の講座』

                 年月日:平成15(2003)年3月15日(土)
                 時 間:15:30 〜 17:30
                 主 催:文京高校OB落語大好き連中(文落連)
                 会 場:都立文京高校校舎3階 2−G号教室
                 講 師:赤坂正雄 先生(当時 英語担当)
                 生 徒:文落連 16名 / 同窓生6名
                     /同窓会世話人 6名   計26名
                 学級委員:昭和34年卒 金子國昭
                 移動学食:大塚北口「鳥忠」18:00〜


議 事 録
            文責:生まれて初めての級長をやらせてもらった、金子國昭


趣旨説明的 口上を仕る

昭和40年近く 都立文京高校に落語研究グル−プ(落研)が結成された
卒業後 彼らが中心となって平成13年に『文落連』が作られた
この度 母校の教室を借りて
圓窓師匠が以前から提唱している『笑涯楽習』を行った
これは、文落連会員の脳味噌老化と老人グループ化を防ぐ目的で
圓窓師匠が提案してのことである


 授業は学級委員の号令の下、起立し講師への礼から始まった。
 講師は出席簿を広げて生徒の名を一人一人呼び上げ、生徒は自己紹介をして赤坂先
生に昔の自分を思い出していただいた。
 本名で出席を取られた圓窓君「私は一年二年三年と3年間赤坂先生の担任で過ごし
ました」と真面目に自己紹介したところ、赤坂先生から「いや、君は二年と三年だけ
僕の担任で、一年は○○先生だよ」と指摘され、圓窓君「・・・・(絶句)・・・・」。教室
内に笑いを振り撒く。
 いくら職業が噺家さんだからといって、ここでは笑い取らなくても良かったよ、圓
窓君。
 古希をはるかに超えていられるのに、頭髪少しも衰えず老眼鏡をも必要としない講
師と、老眼鏡を取ったりはずしたりしながら資料に目を遣る生徒。昔は間違うことの
無かった先生と生徒の区別が、今は全く判らない。


 授業の主題は、日本語の発音と解釈の重要性についてである。講師は特に”四?の
発音に注目された。最近は、これを全て”ヨン?と発音する人が増えているが、それ
でよろしいかと言う問い掛けである。
 四文(しもん):ヨンモンではない、四国四県(しこくしけん):シコクヨンケン
ではない、など。
 言葉の解釈では、「隠 居:仕事や生計の責任者であることをやめ、好きなことを
して暮らすこと(人)」なので、好きなことをせず唯々諾々と無為に毎日を過ごすの
は隠居ではない、と講師は言われるのである。背中を冷たいものが走った生徒がいた
かも知れない。
 また「庶 民:特に、財産は持っていないが、健全な勤労者を指す」とあるので、
二階に厄介になって居る落語界の若旦那達は健全な勤労者ではないから庶民の中には
入らない、と講師は言われるのである。
 辞書を紐解いてこのような言葉を丹念に探していられる赤坂先生は、立派な庶民で
見事な隠居生活を堪能されているようである。生徒達は師の影を見習わなければいけ
<ない。
 続いて、「牡丹に唐獅子 竹に虎、虎を踏まえて和唐内・・・・」で始まる『尻取り文句』
を講義された。「牡丹に唐獅子 竹に虎」の出典が判って感激する生徒が居て、講師も
満足のご様子。
「もうこの辺で授業を終わらせましょう」という講師に、「いや、もっと授業を続け
て下さい」と言う生徒。40数年前の教室では絶対に生徒から出なかった言葉に、赤
坂先生は唖然とされる。
 質疑応答で、圓窓君から「赤坂先生は英語の先生だったので、是非、英語の授業を」
との発言があり、ヘボン式と日本式のロ−マ字表記にテ−マが移る。野球の王が「O
H」と表記するのは正しくない、新庄は「SHINJO」が正しく「SHINJYO」
は正しくないなど。
 圓窓君「SHIJYOはヘボン式ですか? 日本式ですか?」の質問に、赤坂先生
「阪神式です」とすかさず回答され、生徒一同大爆笑となる。
 休み時間もとらず、笑いの内に定刻となり、一同で先生にご挨拶して本日の有意義
な授業は終了した。
『第二回 文落連 笑涯楽習』の開催を皆で約束して解散した。
 その後、希望者は場所を校外に替え、移動学食を大いに愉しんだ。


           

         『 落語に学ぼう、楽しい日本語と処世訓 』

                    リポーター:浮島恵子(昭和40年卒)


 文京高に来たのは卒業以来。
 すっかり変わった校舎にほうっとキョロキョロしながら教室に入っていくと、席が
用意され、机上には名札とプリント、それに消しゴムがついた鉛筆まで調えられて、
まさに至れり尽くせり。
 筆記具を忘れて先生から叱られないようにとの、世話人の配慮がなんとも有り難い。


 ほどなく赤坂先生が入ってこられ、学級委員の金子さんの合図で一同起立、礼の後、
授業が始まりました。
 先生は開口一番「マッ、文落連の集まりに英語やイラク問題を論じてもナンでしょ
うから、、、」といきなりの江戸っ子赤坂節。
 私の期待は一気に膨らみました。
 するとそれは、三省堂の新明解国語辞典を引き合いに出しながらの講演というちょ
っと意表をついたもの。そこでこのサイトでは分かりやすいよう最初にキーポイント
となる落語的単語(覚えている限り)を紹介しておきます。


1)適当=度合いがちょうど良い様子{広義では、表面上つじつまが合うように、要
     領よくいい加減にでっち上げることをもさす}
2)隠居=仕事や生計の責任者であることを止め、好きなことをして暮らすこと{狭
     義では定年後の老人を差す} 
3)庶民=名もなく金も持たない、一般の人たち{特に財産は持っていないが、健全
     な勤労者を差す} 
4)世間知(智)=大人として世の中を上手く渡っていくうえでの判断と身の処し方
     {正直ばかりでは通用しないとか世の中には裏があるとか、事を成功させ
      るためには根回しや付け届けが必要であるとかの、学校では教えてくれ
      ない種類の常識を差す} 
5)読書=研究調査や興味本位でなく、教養のために書物を読むこと{寝転がって読
     んだり雑誌や週刊誌を読んだりすることは勝義の読書には含まれない}


 ここからがいよいよ授業本題。
 先生のおっしゃるには、授業の依頼を受けテーマを多々考えてみたが適当で良しと
思い当たるや、授るほうも受けるほうも隠居および隠居予備軍なわけだから、いっそ
のことご自身がもっとも興味を持っているネタが一番と決意なさった由。
 そこでまずは古典落語の[厩火事]。ご存知、とっさの時につい出てしまう人間の
本心をネタにしたお噺し。
 聞きながら庶民代表浮島の処世術を振り返ってみれば、ウーン、どれも有りかな、
と思わずつぶやきが漏れましたね。


 お次はとんと読書をしなくなった隠居予備軍にも、本の虫を自認するご隠居さんに
も頭をフル回転していただく言葉遊びです。
 一〜十まで音読してみてください。ツボは四と七。そう(シ)と(シチ)と読むん
ですね、最近では「(ヨン)と(ナナ)」組に押しまくられて、九九の暗証が最後の
牙城だとか。相撲四十八手(シジュウハッテ)に赤穂義士四十七士(シジュウシチシ)、
なるほど、なるほど。
 だが、まてよ。四十路はたしか(ヨソジ)では? 難しい! 一筋縄ではいきませ
ん。


 さて、脳のストレッチが済んだところで「尻取り文句」です。
 リンゴ → 碁石 → 新聞(×)の類いではありませんよ。江戸後期から明治にかけ
て作り継がれた子供の言葉遊びなんだそうです。先生は小さいころ実際に使ったとの
こと。例えば、母上におねだりするときなど「母さんおくれ、お暮れが来たらお正月、
お正月の宝船〜」と頼んだそうです。
 先生隠しておられるけれど、もしや慶応生まれじゃないでしょうね。
 まぁその全文はちょっと長いので一部を紹介しますと「チャンやおっかぁ四文おく
れ、お暮れが来たらお正月、お正月の宝船、宝船には七福神、神功皇后竹ノ内、内田
は剣菱七つ梅、梅松桜は菅原で(菅原伝授手習鑑)、藁で束ねし投げ島田、島田金谷
は大井川、可愛けりゃこそ神田から通う(紺屋高尾)、通う深草百夜の情け(小野小
町)、酒と肴で六百出しましょ、〜〜」と、こんな具合に続くのですが、単に語呂つ
ながりだけではなく、芝居、落語、和歌などの意味が重なっているわけです。
 ふー、難しい。この意味を当時の子供は分かってたの?
 その上、出席者のだんな様がこの尻取りを口癖にしていると伺い、かなりびっくり。
彼女は口癖のルーツが判明して、まさににっこり。思い当たれば「結構けだらけ、猫
はいだらけ〜〜」とフーテンの寅さんの決め台詞もお仲間ですか。
 こんなふうに絵入り尻取りの瓦版を読んだ後、脳のクールダウンに<AKASAK
A>など回文で遊んで授業を終了しました。 


 ここまで休憩も無く先生の「これでお終い」コールを遮って教えを請うた生徒に、
先生は何度も「こんなリベンジを受けるほど君らをいじめた覚えはないんだが」と呟
いておられました。
 最後に専門の英語をとの質問に答えて、ローマ字表記について、なるほど納得の教
授です。
 SHINJYO SHINJO SHINZYO
 これは野球の新庄選手のローマ字表記ですが、タイガース時代と現在それぞれどれ
か分かりますか? またどれがヘボン式で、どれが日本式でしょうか?
先生曰く「プロ野球、高校野球などネームに気をつけてみると、別の密かな楽しみが
増す」とか。


 これをもって授業は大切り。
 移動学食のお楽しみへと移りました。
 学食ではご禁制のはずの酒、麦酒、焼酎の飲み放題、旨い肴の食べ放題で大いに盛
り上がり、圓窓師匠もクラスメートに「はっチャン」と呼ばれ円いお顔が益々まぁる
くなられたようでした。


 赤坂先生、本当に有り難うございました。先生の矍鑠として洒脱な授業は面白くて
楽しくて、時間の経つのが何と早いこと。
 隠居になってこそ知る学ぶ楽しさを存分に味あわせていただきました。
 今回、出席出来なかった皆さん! 次回はぜひぜひ! この楽しさを体験して下さ
い!!
 最後になりましたが、圓窓師匠はじめ今回の世話人をお引き受けいただいたメンバ
ーに深く感謝申し上げます。
 有り難うございました。


           

赤坂先生へ「 御 礼 」


                    劣等生 金子國(昭昭和34年卒)より


 先般は、文落連の為に貴重な時間をお割き戴き、まことに有難うございました。
 先生の面白い講義に、時間を忘れて愉しみました。圓窓君の一年の担任のお名前が
すらすら出てくるなど、先生の記憶力には只管敬服するばかりです。我々のことをそ
こまで心に留めて戴き、感謝の念に耐えません。
 先生のお年を考慮せず、休憩時間も取らないばかりか、ずっと授業を続けることを
要求いたしましたかつての悪餓鬼共の気配りの無さを、非礼と共にお許し下さい。
 また機会を作りますので、歌舞伎に関する話もお聞かせ下さい。昔の役者と今の役
者との違い、役者のエピソ−ド、芝居面白話などなど、是非伺いたいものです。
 さて、先生の講義『尻取り文句』について、いつ頃作られたのか、ということが質
問されていたと記憶しています。小生が、この桂文治は明治の文治である旨の発言を
しましたが、根拠を示す説明が出来ませんので、そのままにしておりました。家で資
料を拡げ調べました小生の説を以下に記しますので、御一読下さい。ご批判戴けます
と幸いです。
 なお、資料の内で一番役立ったものは、真打になってまだ日の浅い六代目圓窓さん
が隔月発行していた「まるまど」という4ペ−ジの機関紙です。その機関紙の最終ペ
−ジに、橘左近師作成の「落語家系図」が載せられていました。いまや小生の貴重な
資料となっています。若き圓窓さんは、まことに良い資料を掲載してくれたものです。
「不許複製」とありますのでコピ−は出来ませんが、この系図集は現在、筑摩書房か
ら豪華本「東都噺家系図」として出版されています。三省堂発行の「日本芸能人名事
典」にも文治代々のことが載っています。今回は、これらの資料に、古い噺家さん達
の思い出話と、私の書き溜めたメモとを集約して纏めましたことを付記致します。


            『 尻取り文句 』の 考 察

「牡丹に唐獅子 竹に虎・・・・桂文治は咄かで・・・・ろんどん異国の大港・・・・」
 この尻取り唄がいつ出来たのか? 江戸時代だとすると、江戸の人達がロンドンを
港町だと知っていたか? これが「第一回 文落連 笑涯楽習の講座」に参加した生徒
達の疑問だった。
 解明するヒントは、「桂文治」にある。彼を特定すると、尻取り唄の作られた時期
が判る筈である。
 この尻取り唄に唄われていることごとは、その当時の人達なら何の説明を受けなく
ても知っている、数々の出来事や歴史上のことや言い伝えや風俗なのである。冒頭の
文句にしても、「梅に鶯、笹に雀、滝に鯉、松に鶴」などと同じで、絵を描く時に対に
なる物である。当時は、子供でも知っていることであった。
 それらの事物と同様に、子供にも知られるくらい有名な咄家「桂文治」と言えば、
江戸桂派宗家を名乗り一時期一世を風靡した「六代目 桂文治」しか浮かばないのであ
る。
              ”六代目 桂文治” 略歴
天保14(1843)年 1才 四代目 桂文治(三代目 桂文治の息子)の長男とし
    て誕生。祖母(初代 文治の娘で三代目 文治の妻)の幸から本格的な芸を仕
    込まれて育つ。
嘉永 3(1850)年 8才 由之助の名で寄席に登場。得意な芸は踊りながらの
    口三味線。
万延 2(1861)年19才 三代目 桂文楽を襲名
慶応 2(1866)年24才 六代目 桂文治 を襲名。江戸桂派宗家となる。
    これまでは桂文治の名が江戸と大坂の両方にあり、同時に名乗っていたの
    で、江戸文治と大坂文治を区別する必要がある。このとき以降、江戸桂派が
    確立され、文治の名は江戸(東京)のものになった。
     本格的道具立て芝居噺を得意とし、圓朝と並び称されるほどの名声を受け
    る。落語睦会の重鎮として活躍。明治中期ころまでが全盛と言われる。
明治41(1908)年66才 三代目 大和大掾(やまとのだいじょう) を襲名。桂
    文治の名を七代目に譲る。
     この年七代目桂文治誕生「大掾(だいじょう)」の名は公卿の嵯峨家から受
    けるもので、江戸時代は嵯峨家が金を取って江戸の菓子屋などに売り歩いて
    いた。菓子屋の「司」も同じである。
明治42(1909)年67才 三代目 桂楽翁 を襲名。
明治44(1911)年69才 2月17日、本名 桂文治 没。
     町人として生まれた文治に由之助という本名はあったが、名字となる姓は
    持たずに生まれた。明治になって国民全てが姓を持つ様になったとき、彼は
    桂文治を本名に選んだそうである。


 六代目桂文治を襲名したのは、大政奉還(1867)の前年である。いくら噺が上
手かったとしても、この時点で『尻取り唄』に取り上げられるのは聊か早い。従って、
『尻取り唄』はもう少し後、明治になってから作られたと解釈したい。六代目文治の
全盛が明治中期頃までと言われることを併せて考えると、『尻取り唄』は明治中期前
後に作られたと見るべきではなかろうか。
 やがて鹿鳴館華やかな時代となり、外国のことが東京市民にも広く知られる様にな
ったのだから、ロンドン市が海から近いテムズ河畔にあることを一般庶民にも知られ
る様になったのではなかろうか。それも、当時最新の知識として、である。この尻取
り唄には「ろんどん異国の大港」以外、日本のことに関しても新しいことは一つも唄
われていない。尻取り唄が作られた当時は、「ろんどん・・・・」の部分がとてもハ
イカラだったのではないだろうか。この感覚は「江戸っ子の洒脱」ではなく、「明治
ッ子のハイカラ」だったのである。


          

金子さんへ「異なる事象から」

                        浮島恵子(昭和40年卒)より


 過日は楽しい一時を有り難うございました。
 赤坂先生の講義「尻取り文句」について、私は落語家さんの系列はまったく知りま
せんので興味深く拝見しました。
 又、あの日、赤坂先生がテキストに使用した瓦版の刊行時期についてですが、私は、
三枚続きの刷り物の一枚目、二枚目を見れば、江戸か明治かの区別はつくと考えます。
 頂いた三枚目(一枚目、二枚目はテキストには載ってなかった)には絵師の芳虎の
落款の脇に円の極め印(きわめいん)があります。
 この極め印は錦絵や刷り物を刊行する書隷組合の自己検閲印で明治物になるとあり
ません。桂文治、ろんどんの文言が記載された刷り物部分の極め印の有無を確認して、
ある場合には、解説にあるように文久3年以前と考えてよいのではないでしょう
か? 「桂文治」は咄家の代名詞、「ろんどん」も文久3(1863)年頃には出版
系の人たちには知られていてもおかしくありません。いずれにしろ、このような刷り
物が盛んに刊行されるのは文久3年を余りさかのぼらない幕末です。
 ちなみに安政3(1856)年には翻訳本の検閲が義務づけられ、文久2(186
2)年にはオランダ語新聞の翻訳版が刊行されました。
 もっとも江戸期作成の版木を明治以後文言の部分だけリメイクして、「ろんどん」
を入れてハイカラに仕立てた可能性も十分あり得ます。その場合には文字のイメージ
が他と少し異なるのが通例です。
 以上、金子さんとは異なる事象から考えてみました。


          

浮島さんへ「 予想外の貴重な意見 」

                        金子國昭(昭和34年卒)より


 大層貴重な御意見をありがとうございます。
 貴方に送ると何らかの見解が得られるかと期待していたのですが、このように貴重
なご意見は、想像の外でした。
 不幸にして、私は貴方の指摘された「絵師」や「挿絵」に関する知識を全く持ち合
わせておりません。
 次のことを教えていただけませんでしょうか。


@「芳虎」とはどういう絵師ですか? 明治まで生きたと思いますが、挿絵の他に何
 か作品を残していますか?
A「円の極め印」とありますが、これについてもう少し詳しく説明して頂けますか?
 いろはカルタにしても幾通りかの言い方があります。尻取り唄に幾通りかの文言が
あったとしても不思議ではありません。これが決定版ということも無いでしょう。
お説のとおり、ある部分だけ変化したことも考えられます。桂文治は、咄家の代名詞
説も頷けます。代名詞だとすると、初代でも誰でもよいのです。ただ、明治生まれの
噺家さんには、尻取り唄の文治は六代目だと伝えられています。
 江戸のインテリは西洋のことを結構知っていましたから、ロンドンを知っていたと
しても不思議はありません。お説の通りだと思います。
 ご教示に感謝いたします。


           

圓窓師匠へ「 文落連には 貴重な人達 」

                       金子國昭(昭昭和34年卒)より


 浮島さんから、彼女の見解が送られてきました。とても、貴重な見解なのです。
 私と違う角度からものを見ています。
 挿絵と文言が一致しているのかどうかは、元の本を見ないと判りません。
 国会図書館に行くと、原本が見られるかも知れません。
 それにしても、文落連には貴重な人達がいますネ。当分、笑涯楽習のテ−マには困
らないのではありませんか?
 赤坂先生にも、浮島論を紹介したいと思っています。


           

金子さん、浮島さんへ「 涙が滲むほど嬉しい 」

                             圓窓こと 橋本八郎


 あたしは文京高での学業の思い出はほとんどありません。
 1年の折の「遊川先生」の記憶は皆無なので、てっきり「1年から3年まで担任は
赤坂先生」だと思い込んでいました。
 だから、あの日、あたしは自信を持って自己紹介に臨んだのです。が、みなさんか
ら教室が壊れんばかりの爆笑を浴びても、その意味がわかりませんでした。


 後日、こんなメールが舞い込んできました。


  橋本八郎君へ 捧ぐ


   嗚呼 友達よ 君を泣く
   君 間違えること無かれ
   我々 高一その時は
   君は1階 僕4(し)階
   最上階の教室は
   美術のための部屋でした
   我々 男子の悪餓鬼が
   四十名ほどひしめいて
   当時 三十そこそこの
   赤坂さんを いじめてた
   橋本君はその中に
   絶対入っていなかった
   私と君が 会ったのは
   高二になってからでした
   二階にあった教室は
   大塚中が見えました
   クラス担当の先生は
   赤坂正雄さんでした
  

    「文落連 笑涯楽習」綴り方教室より 抜粋
           (作 同教室 窮鳥 金子)


 諒解しました。
   担任(堪忍)のなる担任は誰もする ならぬ担任するが担任
   担任(堪忍)の心を常に胸にかけ 破れたら縫え破れたら縫え


 それにしても、金子、浮島両氏の日頃の研究が発揮されるとはありがたい次第で、
まさに夢のようです。
 いずれ、落語の創作の折にはお知恵を拝借させていただきますので、よろしくお願
いいたします。

2003・5・5 UP