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 圓窓飛び込み綴り


 ぶくろ→ふくろ 千早町→千早 要町小→要小

文  噺家 三遊亭 圓窓
豊島区広報誌 97年1月号?掲載
転載許可済み
筆者紹介
 三遊亭 圓窓(さんゆうてい えんそう)
 落語家。
 昭和34年都立文京高卒後、8代柳枝に入門。
 柳枝と死別後、6代圓生の門下へ。
 昭和44年圓窓を襲名し真打。
 昭和48年に「圓窓五百噺を聴く会」スタート、現在425席。
 PC通信による落語啓蒙に勤め、落語歌謡も作る。
 平成6年に創作落語の会「新しい噺絵巻」を結成。
「おもしろ落語図書館」全10巻を出版。


1 駅から0分の池袋演芸場
 昭和一五年、下町の深川に生まれたが、終戦の年(二〇年)の空襲直前に山の手の
豊島区に転居したのが、あたしの家族。
その覚えはまるっきりないが、引っ越し後、深川がB29で全滅をしたのだから、親
の持っていた危険を避ける感覚に感謝をしている。
 五歳から、要町、千早町を三転。今では町の字がなくなっている。
(圓窓注:現在、要町小学校はなんと"要小学校"と改名された)
 このことを人に話したら、「村になったのかい」と言われ、大笑いしたことがある。
 ただ単に千早。
「千早町です」と言うより「千早です」と言ったほうが、女の子の優しさの響きがあ
り、「これもいいなあ」と思うようになってきている。
 あたしが地元を語るとなると、まずは<池袋演芸場>を挙げなければなるまい。
 なにしろ、あたしにとっては学生時代の男のロマンを満たしてくれた所であり、今
のあたしの主義、主張、哲学、雑学の源泉と言っても過言ではない所なのだ。
 小学校の頃からラジオで落語と親しんでいたあたしは、どうしても生の落語を鑑賞
したくて仕方がなかった。
 しかし、映画館へ一人で行けても、寄席へは一人では行きにくかった。通りから見
た寄席の正面の造り、雰囲気が子供を拒絶しているように思えたのかもしれない。
 今でも、どの寄席の造りも改めてしみじみ見ると、子供に限らず大人でさえも入る
のを躊躇してしまう構えだと実感する。
 中学生になって叔父に連れられて、やっと池袋演芸場に行ったのが、生の落語との
最初の触れ合いになった。
 池袋演芸場は「駅西口、北口から歩いて0分」と声を大にして宣伝しても、誰から
も「誇大広告だ」と文句は言われないであろう近距離に立地している。
ならば、連日、超満員と誰しも思うのだが、世の中、そうは甘くない。
 先代席亭が終戦後に創立したのだが、それ以来、不入りとの我慢比べの歴史が続い
た。「もう寄席経営はやめよう」と決心したことが何度もあったそうだ。
 しかし、その度に噺家の「続けてください」の声に負けて、続ける決心に変えたと
いう人情家でもあった。
 あたしが地元の噺家ということで、先代席亭にはなにかと声をかけてもらった。そ
の恩返しのつもりで、なんとか池袋演芸場を大入りにしようと考えるのだが、あたし
一人の力では……。
 落語の業界は江戸時代とたいして変わらない。その日、その日、ふらっと入ってく
るであろう客層を対象にしている。まさに時代遅れ。
 それを客は敏感に察知しているのだが、業界側が鈍感でそれに対処できないでいる
のが、悲しい。
 池袋演芸場が旧弊を打破して、脚光を浴びる寄席になることを期待する一人なので
す。


2 これからは生涯楽習
 学校の勉強が嫌いで、嫌いで、ついに文京高校卒業後、学業はほとんど身に付けず
に落語家になった。
 なってみて、大変なことに気付いた。「落語を覚えればいいというものではない。
日本の言葉、歴史、その他あらゆる文化を知らなければ、プロとして演ずることはで
きない」と。
 そこで、古文や日本歴史の授業では寝ているほうが多かったあたしは、「今からで
も遅くはないはず」とばかりに池袋西口の書店、<芳林堂>や<高野>へ通った。
 前座ゆえ、銭はなく、やたらと購読はできない。ほとんどが立ち読みだ。隠れるよ
うにメモをとったりもした。万引きこそしなかったが、そんな目で見られたことも度
々あったのも、今ではささやかな自慢の一つだ。
 その古本屋の高野が現在、芳林堂の八階で高級古書店として鎮座ましましているか
ら、面白い。こうなると、高野ではますます購読はできない。立ち寄っちゃァ、立ち
見、立ち読みで満足して立ち帰ることにしている。
 そんな過去を持つあたしが、今年、若者向けの落語全集・全一〇巻・<おもしろ落
語図書館>を出版するにあたって通ったのが、町内の豊島区立の千早図書館。
 口から出た言葉は消えていくが、活字に残したものは不滅。いい加減なことは載せ
られないとなると、新たな勉強、調査、確認が必要。
 昔、深草少将は小野小町の許に人目を忍んで夜中に通って、九九日目に疲労で死ん
だとか。あたしは昼間堂々と百日以上だ。少将は色の道だが、あたしは学問の道だ。
 あたしにも少々の疲労はあるが、死までに至ってない。
 それに近頃、創作(古文落語、芝居落語、狂言落語、童話落語)の活動をしている
ので図書館への通館も増えた。
           (圓窓注:この頃、新美南吉の童話を落語化していたので、
                「童話落語」という言葉を盛んに使用していた)
 理由は経済的節約もあるが、他にもある。本もいいが、買ったもの、貰ったものは
捨てにくく、しまいには置く場所に悩む。その解消に図書館。なにしろ、一人一二冊
まで二週間も貸してくれるのがいい。借りたものは返せば、場所はとらない。図書館
再発見だ。
 あたしはこの通館を、己れの<生涯楽習>の範疇に入れようと思っている。
「ガクシュウのガクの字が違う。楽ではなく、学だよ」と抗議したい方もおいでだろ
う。そこで、あたしの主張。
 学んで習う、という学習では学生時代の試験のつらかったことが連想されてうんざ
りする。そこで、「楽しく習おう、生涯楽習」という運動を起こそうとしているので
すが、今のところ、賛同者はゼロ。
 どうでしょうか。豊島区が先頭に立って、この運動を全国に広げませんか。
  (圓窓注:この頃は「生涯楽習」だった。後日、「笑涯楽習」に改正している)


3 地元に能楽の観昭会館
 自慢するわけじゃないが、こう見えても、あたしにも追っ駆けの一人や二人ぐらい
はいる。
 とはいえ、あたしの顔を見て、「キャァー、キャァー」と騒ぐようなギャルでもな
いし、万円札をレイにしてあたしの首にかかてくれるようなおばさま族でもない。
 客席から真剣な眼差しで高座の落語を聞き入る、「元、娘です」と自分で名乗る方
々である。
 その一人、M子さんは、あたしの家の近くの椎名町を食う寝る所としているから、
れっきとした豊島区の住人。
 去年。そのM子さんとの雑談の中で、びっくりするようなことを教わった。
「師匠。椎名町の駅の近くに能楽堂があるのを知ってますか」
「エッ!」
 あたしは、跳び上がった。
「実は、あたしも知らなかったんです」
 と、M子さんも興奮気味に続けて言う。
「野村万蔵家狂言会の主催の普及公演があるんですが、なんとそれが、<西武池袋線
・椎名町駅北口下車・徒歩3分・観昭会館>とチラシに書いてあるんです。平成七年
まで知らなかったなんて、恥ずかしいわ。そういわれてみると、ときどき、どっから
か、一遍に人が吐き出されたように、大勢の人の行列が駅に向かってゾロゾロ歩いて
行くのを見たことありました。あれはきっと、観昭会館から出てきた人たちだったん
でしょうね」
 そんなことがあって、あたしは翌日、自転車に乗って見届けに行った。
 確かにありました。<観昭会館>と書いてあります。改めて、感動。しばらくは、
その建物をなめるようにジーッと見続けた。
 十一月にその公演を鑑賞しに出かけ、中を見ることができた。
 ある、ある。嘘じゃない。能舞台がちゃんとある。この豊島区にだ。まるで、夢を
見ているようだ。<しびり>と<六地蔵>の狂言に笑い転げた。
 中学の頃だったか、授業の一環として水道橋の能楽堂に能狂言を観に行っている。
<紅葉狩>と<蚊相撲>の二本だった。
 それ以来、狂言との触れ合いはほとんどなかったのだが、去年、万之丞師から声を
かけていただき、今年、狂言とのジョイントに参加し、狂言の<花子>を落語にアレ
ンジして国立能楽堂で口演する機会を得た。
 こうなったら、いつか、観昭会館の舞台にも上がってみたい。漏れ伺うところによ
ると、会館としては積極的に貸すことはしないそうだが……。
 今、あたしは同じ豊島区にお住まいの万蔵師の出した本(狂言 伝承の技と心・平
凡社)にサインをしてもらいたくてウズウズしている。
 ああ、狂言の追っ駆けになりそうだ。


4 歩いてます
 今、あたしは盛んに歩いている。理由はますます増える一方の体重を落とさんがた
め。
思えば、子供の頃のあたしは、歩くのは特別なことではなかった。
住居の要町から池袋の駅まで、歩くのは当然で、バスへ乗る人を「あれはお金持ち」
と思ったが、べつに羨望の眼差しは向けなかった。バスは長距離の場合に限り乗るも
のだ、と思っていた。
 小学の何年生だったか忘れたが、足を怪我して、とても歩ける状態でなかった。
母が「学校はバスに乗って行きなさい」と、お金を出してくれたが、「乗ってすぐに
下りるような距離を乗るのはみっともない」と、拒否して強情に足を引きずって歩い
た覚えがある。
要町の交差点から要町小学校まで、バスに乗れば一区間の短い距離だが、引きずって
歩くと、こうも長い距離なのか、と母に逆らったことを反省したものだ。
 毎年、夏は、帰宅後の深夜、近所を歩くことにしている。
 一昨年はサッカーボールを蹴りながら。去年は渡辺美里と秋吉恵美子のCDを聞き
ながら。
 コースは豊島区だけではあきたらず、板橋区、練馬区、新宿区まで足を延ばした。
 要町と池袋の境を流れる川、今では蓋がなされて公園。去年、その公園に沿って板
橋区のほうへ歩いて行ったら、なんと、赤羽駅の下に到着したのには驚いた。大発見
だった。
 今年は犬を三匹連れて、しかも、女房と一緒の歩きとなった。
 というのは、去年の春から夏にかけて、首輪を付けた犬が近所の公園をうろうろし
ているのを目撃。捨てられたのか、脱走をしたのか。いずれにしても、車に轢かれる
のも不憫だし、先住の犬が二匹いるのだが、拙宅で保護した。
しかし、犬小屋まで購入したのだが、脱走されてしまった。
 それっきり、姿を見なかったのだが、今年の初夏、また、公園でうろうろしている
のを発見。今度は、慎重に保護しようと、座敷で飼うことにした。
 雑種のオス。公園で出っくわしたので、パークと命名。
 これが変わっている犬で、おとなしいのはいいのだが、芸は「お手」「お座り」「
チンチン」も出来ず、吠えもしなければ、尻尾を振ることもしない。名を呼んでも、
来るどころか、こっちへ首も回さない。ひたすら、脱走の機会を伺っている様子。
 ことによると、相当に高いレベルの訓練を受けた犬なので、庶民の声には反応をし
ないのか、とも思のだが、調べようがなくて困っている。
 このパーク、一年中、流浪の生活でアスファルトの道を歩いていたのだろう。爪は
短く、足の裏はタコのように硬かったが、最近は座敷の生活のため、爪も伸び、足の
裏も柔らかくなってきている。
 パークも腹の中でつぶやいているかもしれない。「犬も歩かなければいけない」と。


5 字を生かすも殺すも
 普段、池袋の西口に人だかりすることは、めったにない。
 でも、袋祭となると、なぜか、すごい。「駅から、こんなにまで人が出てくるのか
!」と、びっくりするほどの変貌振りだ。
 しかし、祭は年に一度。ということは、池袋西口は年に一度しか、活気がない、と
いうことも言える。寂しいな、これは…。
 パソコンのキーの叩きついでに、もう一言。
祭の「フクロマツリ」という言い方が、どうも、あたしにはなじめない。「ブクロマ
ツリ」と言うから、汗とかけ声の神輿が威勢よく担ぎ出されるのだ。「フクロマツリ
」では、細々と内職をしているようで、活気も出なかろう。
 子供の頃より、「ブクロへ」「ブクロから」と口にしたり、耳にしたりしてきた。
「イケブクロ」の後半部の「ブクロ」を独立させた用法だ。「フクロへ行く」なんて、
間抜けな言い方をするやつは一人もいなかった。
 聞くところによると、「ブクロ」の語感に、終戦後の暗い、恐怖のイメージがある
ので、それを避けるために、「フクロマツリ」と読ませているとか。
 なるほど、「フクロ」と言ったほうが清い感じだが、そこに人間の生活する池袋の
姿は感じない。近くの新宿を「シュク」と言わず、「ジク」「ジュク」と言っている
ように、堂々と胸を張って「ブクロ」と濁って言おうよ、呼ばれようよ。
 お隣の埼玉県がダサイから脱皮するため、「彩の国」と呼称を叫んでいるが、なん
となく、虚しさを感じてならない。
 以前、地元の人に雑談の中で提案したことがある。「そんなにフクロと呼ばれたい
のなら、池袋を<袋の町>として、紙袋から高級の袋物を生産販売して町興しをやっ
たら」と。即、一笑に伏されたが、「袋の形をした池があったと、古い資料に載って
いる」だけでは人も集まるまい。
 地名も文化の一つ。その字も生かしましょうよ。
おっと、あたしはよけいなことを言う癖がある……。そう、字で思い出した。
去年の夏、池袋の某銀行から「当銀行のロビーで、行員に講演を聞かせてください」
との依頼電話があった。
 当日。出かけて、着替えのため、支店長室へ。
壁の額の書が目に入る。「斜暉」。
支店長に「なんと読んで、どういう意味でしょうか」と訊いてみた。
すると、「誰も知らないのです。この銀行でいちばん古い物でして…」という、笑い
ながらの言が返ってきた。
 帰宅して手許の辞書を開いてみたら、「シャキと読み、夕陽の輝きの意」とある。
早速、支店長宛にお礼かたがたFAXでそのことを送信したんだが、返信はないので
ある。
 もっとも、支店長ともなると、忙しくて、漢字の付き合いまではできないのであろ
う。そもそも、あちらは数字の業界。あたしは「よけいなことをしてしまった」と反
省した次第。
 しかし、この銀行も字を生かしてない。飾っておくだけの飼い殺しに近い扱い方だ。
 文化が泣くぞォーー!

2002・4・22 UP








話 す ・ 聞 く ・ 描 く

文  噺家 三遊亭 圓窓


心をはぐくむ『道徳と特別活動』に掲載
 2000年6月号・文渓堂 月刊発行
転載許可済み


 成人式のあった後日の新聞を読みながら、今年もまた同じことを思い出すこととな
った。


  あたしが落語家になり、前座として寄席の楽屋で働くようになったのは、昭和34
 年の春であった。
  その頃、楽屋には明治生まれの名人、上手がまだどっさりいた。
  ある日、ある前座が師匠にお茶を出しながら、こう言った。
 「昨日、師匠の落語を見ました」
  途端にその師匠の顔色が変わった。
 「馬鹿ヤロー。落語は見るもんじゃねぇ。落語は聞くもんだ!」
 「……、すいません…」


 新聞の記事は、静岡県下の市長が「来年から成人式はやらない。税金の無駄使いは
しない」と言明したことを載せている。確か、去年も早稲田大学の某教授が「成人式
ではもう二度と講演はしない」と激怒していた。
 つまり、この二箇所で共通しているのは、式典に集まった新成人らがステージから
の講演をほとんど聞かず、会場は携帯電話、飲食、私語などの騒音が渦巻いて、とて
も式典とは思えない状況だったことだ。
 あたしも高座に出て、同じような状況に置かれたら、黙ってはいられないほうであ
る。「聞く立場の者が私語を交わすとは、なにごとぞ!」「普通、シゴ(死語)の世
界は静かなものなのだ!」「こんな賑やかで騒々しいシゴ(私語)の世界があるか!」
と、怒鳴るに違いない。
 しかし、あたしも冷静になって考えて見ると、彼らだけの責任でもないのではない
か、という結論に突き当たった。
 彼らは20歳になるまで、テレビ、ビデオ、ゲームという四角い中で描かれている
ものを見つめて育ってきた。それが、「20歳になったんだから、人の話を一時間、聞
け」と言われたって、急に出来るわけがないだろう。
 極端なことを言えば、普段、人の話を聞くことに集中するなんて体験は、学校や家
庭でもしてこなかったのではなかろうか。


 話題を元に戻そう。
 前座はテレビに出演した師匠の落語を取り上げて、「落語を見た」と言ったのだが、
明治生まれは許さなかった。
 江戸時代からそうなのだが、寄席へ足を運んで、客席から高座の落語家を見ても、
演じられた落語は「聞いた」と言ったものなのだ。
 聞くということは、その話の場面や状況を自分で描かなければならない。描くこと
ができて、初めて理解することに繋がるわけである。
 見るということは、どうなのであろうか。テレビでドラマを見る場合、その場面、
状況はもうすでに四角い中に描かれているから、自分で描く必要はない。見やすい、
わかりやすいで、ついつい、ぼんやりしてしまい、不理解に向かって進むと、結果、
集中力、忍耐力の欠如の人間を育てたに過ぎないことになる。
 残念ながら今日では、テレビの影響で子どもから高齢者までが「落語を見た」と言
うようになってしまった。
 それに、加えて、テレビの笑い番組の低俗さはどうだあろう。中傷し合い、愚弄し
合い、ぶったり蹴ったりで笑いをとっているではないか。
 笑いながら見ている子供たちには、「よし、おれもやってみよう」とばかりに、い
じめや差別が当然のように育つのである。
 テレビに侵されっ放しにしている間は、いい教育の芽は頭を出してこないだろう。
 テレビから離れさせて、[話す][聞く][描く]という手順を踏むことを楽しく
教え込まなければ、本当の教育は姿を現さないではずだ。
 あたしは平成元年から、寄席の高座で訴え続けてきたことがある。
「小学校の授業で落語を教えよう」と。
 その甲斐あって、10年後にしてその夢が叶い、12年度の小学校四年の国語の教科
書(教育出版)に、あたしの落語[ぞろぞろ]が載るのである。
 教科書だから、文字の落語を読むことになるのだが、読むことも自分で描くことを
必要とするので、重要である。そのうちに覚えて、一人で話せるようになれば、落語
家と同じ作業をしていることになる。
 他の者がそれを聞くことによって、描くことに務める。効率の良い教育の場になる
であろう。
 そんなことで、あたしは小学校の授業で落語が取り上げられたことは、自分で描け
る才能を身につけた子どもが巣立ち、社会に出たとき、この日本に大きく変化をもた
らすことに繋がる、と期待している。

2000・5・20 UP