ありし日の /「自 警」から / 東京かわら版 / トップページ 

東京かわら版・2月号

 脇目の熟読 第18回「師走の風流」

2002年2月 東京からわ版発行
2月号より 文 寺脇 研

 2002年は、東京の落語界が明らかに「動き始めた」ことを感じさせる年だった。
特に中堅真打から下の年代に目立った動きがあり、それはおそらく加速して何か大き
な変化につながっていく気がする。今年03年は、その方向が見えてくるのではある
まいか。
 01年末に制定された「文化芸術振興基本法」にも、落語は第十一条に「芸能」の
ひとつとして位置付けられている。つまり、「文化芸術」の1ジャンルであることを
明確に謳われているのである。それにともない、公演活動などへの国からの支援も大
幅に強化された。だが、支援はあくまで支援。外からの力でなく、落語界内部からの
力で活性化していくのが本筋なのは言うまでもない。芸術なんかじゃねぇや、落語は
大衆のための娯楽だ! でも結構。要は、長い伝統を持つ落語という芸を現代に通じ
るものにすればいいのだ。それが自ずと、業界の繁栄につながる。
 芸術だろうと娯楽だろうと、落語が「文化」であることは厳然たる事実だろう。観
客を集め、ファンを作っていくものである以上、落語を演じ、それを観る営みはひと
つの「文化」なのである。
 国立演芸場の12月上席は、赤穂浪士の吉良邸への討ち入りから三百年を記念した
「討入三百年 寄席手本忠臣蔵」。すべての出し物が忠臣蔵にちなむという、タイム
リーで興味をひく企画である。
 喜せん『近日息子』は、口切りにふさわしい軽い与太郎ばなしを、「近日」という
言葉の説明をていねいに押さえて笑わせる。「近日上演」の芝居をめぐるサゲが、そ
のまま「寄席手本忠臣蔵」の前口上めいた役割になるのがしゃれている。
 続くゆめじ・うたじの漫才は、日ごろもやっているのだろうノーベル賞ネタから入
って吉良上野介の墓を訪ねた話につなげていく。吉窓『権助芝居』は由良助とお軽の
やりとりの田舎弁パロディで明るく爆笑させ、馬桜『七段目』はその七段目を題材に
該博な芝居知識を生かして客席を芝居小屋気分に巻き込む。
 女流講談の春水が『義士銘々伝 矢田五郎衛門』を朗々と読み上げた後、中トリ馬
生は『淀五郎』で四段目切腹の場を描く。役者淀五郎の芸談ものだが、馬生らしいぬ
けぬけした笑わせ文句をマクラから意図的に多用し、講談と落語とのコントラストを
くっきり示してみせた。
 花島久美の奇術にも吉良の首に見立てた風船を箱に入れ、刀を刺す趣向があったに
もかかわらず、続く世之介は「もう種は尽きたんで・・・」とはぐらかす素振りを見
せておいて、何の噺だろうと訝らせる中、途中病死した浪士・山岡角兵衛の未亡人が
討入を手伝うという『角兵衛』とは珍しい。人を驚かす新奇さを狙うこの人らしい企
てだ。
 小菊が忠臣蔵ゆかりの俗曲を麗しく披露して、いよいよトリは円窓。浅野、吉良の
刃傷沙汰と義士切腹の両方を実質的に裁いた儒学者・荻生徂徠を主人公にした『徂徠
豆腐』の一席を長演45分、重量感さえ覚えさせる手厚さで描ききった。徂徠はいわ
ば敵役、そのクールな視点を通して芝居ならぬ史実の世界で討ち入りを捉えるのは、
ここまでの芝居的忠臣蔵を現実面から見てみるというぜいたくな構造にもなっている。
 そしてフィナーレは、春水、久美の女性二人を交え喜せん、吉窓、馬桜、馬生に日
替わり出演で出番外の窓輝、金八まで加わる「高座舞い社中」が大喜利の総踊りで、
上野介に扮した円窓をいたぶる寸劇まであり、締める。6月上席に新宿末広亭で「夢
現実焙茶湯煙(ゆめうつつほうじのゆけむり)」と題して円窓創作による「舞台落語
『ほうじの茶』」という野心的企画番組に挑んだメンバーだけに、全体がぴったり呼
吸も合っていた。
 ちょうどこの日は12月の東京では久しぶりという大雪。にもかかわらず、いや、
だからこそか、寄席はなかなかの入りだった。討ち入りといえば雪だものね。こうし
た企画に果敢に取り組む落語家たちがいて、雪を風流と受け止め、寄席に足を運ぶ客
がいる。ねえ、これが「文化」ってものじゃありませんか。
2007.7.27 UP