教科書の中の落語 特報 これが落語[ぞ ろ ぞ ろ]だ! 圓窓先生 日大芸術学部に現れる トップページ

特 報

 平成11年度 習志野市立大久保小学校公開研究会

1999・10・28

 習志野というと、今はもう足を洗ったあたしだが、ゴルフを思い出す。
 そのゴルフには自分で車を運転して出掛けていたので、鉄道の知識は薄く、今日の今日
まで習志野という駅があるもんだと思ってたら、「ありません。津田沼駅で降りてくださ
い」と担当のT氏に言われた。
 落語[ぞろぞろ]が小学4年の教科書に載るのは12年度からだから、今の4年生の教
科書には載っていない。だが、習志野市立大久保小学校では落語の授業をしているのは事
実。筑波大付属小学校もそうだったが、校長の判断で融通の利く部分もあるようだ。
 この学校の柴田校長は江戸っ子で、落語大好き人間の一人。ただ好きなだけではなく、
落語を通して教育できるものを掴んでいるからであろう。それに合わせて、先生方も教育
に熱心。新しいものが出来ないわけがない。
 学校寄席という言葉が生まれて久しい。あたしも以前はよく行ったが、今はほとんど行
かなくなった。演ってて惨めになることが多いからだ。
 というのは、卒業するまでに一度、全校生徒を講堂や体育館に集めて落語を鑑賞させよ
うという教育なのだが、それが成果を上げているかとなると、疑わしい。全校生徒に無理
矢理に鑑賞させようという形になり、不貞腐れた反抗も見え隠れする。
 思うに、そんなことより、教室で授業としてやってくれたほうが、何十倍も効果はある
はず。時間もかかるだろう。先生の苦労も多くなるだろう。でも、そのほうが抜群の結果
が得られるはずだ。あたしはそれを狙っている。
 だからこそ、津田沼の駅に降り立ったのだ。

 4年1組の鈴木先生の授業は10時から始まる。
 他校から駆けつけた先生が教室に入って参観しているだけではなく、NHKや地元の有
線テレビのカメラマンが構えているのが目に入った。
 事前に「テレビカメラの撮影はいいですか?」との問い合わせがあったので、「教室内
を張り切ってウロウロしないこと」を条件に「どうぞ」と許可してある。過去に、ただ、
「どうぞ」と言ったがために、演っている高座に上がり込んで撮影された経験があるあた
しは、カメラマンにはちょっと嫌われるタイプ。習志野にそんな愚かなるカメラマンはい
なかろうと、信じつつも、条件を出した次第。

 小学生は40分が一授業。これが中学生だと50分になると、聞く。
 着物に着替えをして教室に案内され、しばらくは後ろで立って、鈴木先生の授業を見聞。
地元のアマチュアが演じている落語[ぞろぞろ]のビデオを生徒が鑑賞し、その感想の話
し合いに入った。
 多かった意見が、生徒が持っている[ぞろぞろ]のテキストと、ビデオの[ぞろぞろ]
では、かなり言葉の違うところがある、という点だった。
 仮に、あたしが演じても生徒さんのテキストにぴったりと合う、一言半句おなじように
はできない。ここいらが落語の特徴に一つなのだが、生徒にそれを講釈するのは、まだ早
いかな、と消極的に思う。
 それよりも、もっと大事なことがある。生徒の声が小さいのだ。じれったさを感じた。
 そうこうするうちに、鈴木先生から「今日は特別に教科書に[ぞろぞろ]を載せた三遊
亭圓窓師匠が来てます」と紹介され、可愛い嵐のような拍手に迎えられて、教壇へ、と思
ったら、壇はない。今は、ないのか……、残念……。
 まず、のっけに「大きな声を出そう」と、一発。
「どんな素晴らしい情報でも、声が小さくて相手に聞こえなかったら、価値はゼロでしょ
う。それじゃ、つまらないよね。だから、普段から腹から声を出すつもりで、大きな声を
相手にぶつけよう。わかった?」
「はーい!」
 やっと、大きな声になった
「ところで、[ぞろぞろ]のテキストと、ビデオの[ぞろぞろ]では、言葉の違うところ
がある、という意見が多かったので、その説明をしましょう。
 今でこそ、『落語』と言うが、江戸時代は『はなし』と言ったの。みんなも、今、はな
しをするでしょう。たとえば、学校へ来て、お友達に『昨日、家でお父さんと喧嘩しちゃ
ってさ。早く寝ろって怒鳴るから、眠くねぇって言っちゃった』。
 このとき、一人で自分とお父さんの二人の役をやってるでしょう。
 落語も一人で何役もやるでしょう。
 ということは、普段のはなし方と落語は同じだよ、ということなの。
 普段のはなし方が、落語になった、といってもいい。
 普段、みんなが喋っているはなしは、同じようなことを言ったつもりでも、そのたんび
に言葉は違っているはずです。相手により、場所により、時間により、どうしても違って
くるもんなのです。
 だから、はなしと言われた江戸時代から、落語と言うようになった今日まで、同じ人が、
同じ落語を演っても、演るたびに言葉が違ってもいいの。
 みんなが落語を勉強するのは初めてでしょう。最初からそれは出来ないでしょう、難し
くて。だから、基本としてテキストでちゃんと覚えることから始めているの。
 で、なれてくると、少しずつ言葉が違ってくるかもしれない。ただ、注意しなければい
けないのは、言葉が良く違ってくるのと、悪く違ってくるのとがあるからね。
 これ、難しかったかな。わかった?」
「はーい!」
「うん。大きい声だ。先生より大きい声だ」
 
 授業終了後、廊下でNHKTVのインタビューを受ける。
「テレビのお笑い番組の笑いに芸になってないのが多すぎる。人の恥部や弱みを平気で突
っついたり、ぶったり蹴飛ばしたりして笑いを得ようとしている。それを見て育った子供
の何割かが、いじめに走る、と言っても過言ではない。
 落語の笑いの芸を小学校から勉強していれば、いじめ、登校拒否も少なくなるはずです
」と。
 それにしても、今日のカメラマンの優秀なこと。授業中、カメラを意識したのはほんの
一、ニ分。そのあと、インタビューを受けるまで、カメラが入っていたことさえ、忘れて
しまってた。
 生徒も先生もあたしも、授業に燃えていたのかもしれない。
 
 このあと、すぐに体育館へ。研究全体会へあたしも出席。
 先生方の日頃の研究、苦労が伺えて面白かった、というより、勉強になった。「これほ
どまでに、先生方が熱心に教育にぶつかっているのに、なぜ……」と、つい思う。

   先生方や教育委員方と昼食。
教育「皆勤賞、精勤賞を設けている学校と、設けてない学校とがあります」
圓窓「あれ? 学校なら全部にあると思ってました」
教育「これが難しい問題も抱えているんでして」
圓窓「どういうことですか?」
教育「皆勤賞ほしさに、無理して学校へ行く子がでてくると」
圓窓「いいじゃないですか、頑張りがあって」
教育「それが伝染病にかかっているのも知らずに無理に登校して、その病気が蔓延すると
  いう危険性があるので……」
圓窓「はぁぁ、教育ってずいぶん深読みするんですね。伝染病蔓延防止のために、皆勤、
  精勤の賞を設けないということですか」
 続けて、
圓窓「じゃァ、伝染病蔓延の防止をしたかもしれない、という理由で登校拒否した子供を
 表彰したら、どうですかね」
 と、言おうとしたが、やめた。洒落が通じないと困るので。
 
 午後2時半より、先生方の前であたしの講演。
「これから落語の勉強するのは、生徒だけじゃない。先生もそうです。また、教科書に落
語を載せた、あたしもそうです。よろしく」
 と。
 ま、教室で生徒に言ったことを復習する形で、脱線をしながら[有馬の秀吉]から[ぞ
ろぞろ]の実演へ。
 国語の先生を前にした折は[有馬の秀吉]がいい。というのは「落語の駄洒落は、和歌
でいう掛詞です」というマクラから入れるから、説得力がある。話すほうに説得力はあっ
ても、聞くほうに納得力がないとなんにもならない。納得力を育てつつ、説得力を発揮す
るって、ああ、困難。
 
 近くのホテルでの打ち上げにも参加。
 あたしと校長の顔が似ているという話題になったので、一言。
「これまでにも、あたしに似ている人は何人かいました。でも、ほとんど若死にしてます。
善人だったんですかね」
 似ている本人の校長がいちばん笑っていた。
 洒落のわかる人らしいので、この学校の落語の授業になんら不安はなさそうだ。

1999・11・3 UP





国語の教科書に圓窓の落語[ぞろぞろ]が載る
平成11年度の小学校4年下(二学期用)

現代では、人の話を聞いてその状況や場面を頭に描くという、コミュニケ
ーションの原点がテレビやゲームの視覚的情報の勢いに押され、崩壊寸前と
いっても過言ではない。
圓窓は以前からその傾向に心を痛め、「学校教育に落語は必須科目」を高
座から訴えてきました。
この度、教育出版がそれを取り上げ、落語を教科書に採用してくれました。
小学校では初めてのことであり、圓窓としても夢に描いていたこととはいえ、
実現するとは、まさに夢のまた夢の心境です。
落語[ぞろぞろ]から、生徒たちがなにを学んでくれるのか。[ごん狐]
が多くの子供たちに愛されたように、[ぞろぞろ]も末永く愛されたい。
圓窓はこれにまた夢を重ねて、できることなら、小学校の教室に飛び込ん
で行って、先生と生徒たちと一緒になって落語の授業をしたいという思いに
駆られるのです。
とりあえず、現場の先生、生徒、そして父母の意見や感想をメールでいた
だければ、と考えております。それはこれからの指針となり、かつ、ホーム
ページが教育の手助けをするという評価に繋がるよう努力いたしますので、
どうぞ、よろしく、お願い申します。
三遊亭 圓窓
                       (1999.7.吉日 記す)

                                    


あんこくけん 夏季総合研修大会
1999.8.18〜19
丸山町中央公民館&沖見屋旅

安房国の小中学校の国語の先生方、100人ほどの前で、圓窓は講師として110
分の講演をする。
テーマは[落語は必須科目]
「落語は見るものではなく、聞くもの。
「見るテレビから離れ、話す、聞くことを心掛けよう」
「振り返ってみると、脱線した授業のほうが印象に残っている」
落語に限らず芸はすべてライブに勝るものはない、ということで、即席の高
座に座って[ぞろぞろ]を口演。

聴講した先生方からの感想文

「[圓窓ひとりごと]を購入しました。本日のお話を聞いて、読むのを楽し
みにしています。
お話、有難うございました。脱線授業、共感します。子ども達と話すと、
その脱線話が本来の授業より「楽しい、面白い」とよく言われますので…。
その通りと思わず納得してしまいました。
聞くこと、読むことも頭に絵を描かなければ内容を理解できないと再確認
しました。二学期からの国語の授業、楽しみとなりました。勿論、あの[ぞ
ろぞろ]も話してあげたいと思います。きっと、喜ぶはずです」


圓窓から一言
「我がエッセイを買ってくだすって、ありがとうございます。いずれ、
[続 圓窓ひとりごと]が世に出ますので、その折も、よろしく。
電車の脱線は悲惨ですが、授業の脱線は絶賛です」


「素晴らしいお話を、ありがとうございました。
一つ一つのお話が楽しかっただけでなく、その中に流れる師匠の生き方、
考え方に感動しました。
本当にありがとうございました」


圓窓の一言
「あたしが人に感動を与えたなんて、本当ですか。信じられな〜い」  


「本日は、ありがとうございまた。
師匠の巧みな話しぶりの中に『聞くこと』の大切さ、楽しさを知り、今さ
らながら実体験しました。
来年度、どのように扱うか、また、楽しみが増えました」


圓窓の一言
「人生、すべて実体験。来年度の反応を知らせてくださいな」


「本日は、楽しく、わかりやすいお話をありがとうございました。
落語にかける情熱、また、一人の人間としての前向きな生き方(弟子との
関わり。ご自分の創作落語にかける努力など)にも学ばせていただくことが
多かったです。
学校に戻り、自分の話を聞いてもらうと共に、子どもの声を聞くことを大
切にしていきたいと改めて思いましたし、自分自身を磨く努力を怠ることの
ない人間になりたいとも思いました」


圓窓の一言
「自分の子を家に置かないで外で働かせる、ということがあります。
弟子もそれと同じで、最初、基本を三席ほど教えて、あとの稽古は、
他の師匠の所へやらせてます。
自分で落語を創作する活動は師匠の圓生もやらなかったこと。それ
だけに、少々、張り合いもあるのです。


「初めてライブで落語を聞かせていただきました。早速、子どもたちに話し
て聞かせたいと思います。
お話の中の『聞く』ということですが、力が衰える、怖いことだと思いま
す。保育園に通うわが子(3歳)は保育園でもアンパンマンのビデオを見て
おり、あたしはその姿が思い出し、ゾーッとしました。教師としても親として
も考えてみたいと思います。
ありがとうございました」


圓窓の一言
「子どもに映像、画像の与えっ放しは危険ですよね。でも、手がかか
らなくていいから、ついついそういうことをしちゃうんだろうな。子
どもには直接、話を聞かせる習慣をつけましょう。アンパンマンもそ
う言ってましたよ」