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 創作・狂言落語 1

坐 禅 の 遊 び


           登場人物
和泉屋亭主  万蔵(三五歳)亭
その女房  お富(三三歳)房
番頭  耕介(四〇歳)番
手代  良介(二五歳)良
小僧 二三蔵(一二歳)二
芸者  花子(一六歳)花

  昔は、浮気は男の甲斐性だ、なんてことを言ったもんですが、現代はそんなことはあ
 りませんな。このジャンルにも女性が進出してきまして、たいそう活躍しているようで。
  テレビドラマなんぞを見てますと、団地の主婦たちが、「単なる不倫よ」なんて言っ
 てますな。あたしは、不倫という字も意味もわかりませんでしたので、広辞苑を引きま
 したよ。出てました。「リンじゃぁない」って。リンじゃなければ、男だって、女だっ
 て、安心ですよ。あとは、エイズの心配だけですから。
  夜、帰ってきた亭主が湯に入ろうと、パンツ一枚でうろうろしている。女房がひょい
 と見ると、そのパンツが裏返し。
 「ちょいと、なんなの、そのパンツ。裏返しよ」
  そう言われて、「ごめんなさい。実は、これこれこういう訳で、つい、魔がさして」
 なんて、謝るようでは男として修行が足りませんね。
  男は謝ってはいけません。言い訳できない状況にあっても、言い訳できなくてはいけ
 ない。
  あたしも一度、同じ様な経験がありましてね。
 「ちょいと、なんなの、そのパンツ。裏返しよ」
 「ああ、駅の階段で転んで、裏返しになった」
  そんな馬鹿なことはありませんが、そうすべきですね。
  謝ってはいけません。女房は亭主が謝ってるのを見て、がっかりするそうですね。
 「なんと、ちっぽけな男なんだろう。ああ、情けない…」
  こんなことから、そろそろ別居を考えるんだそうで。
  それより、「駅の階段でえー!」と堂々と言い放ってごらんなさい。女房の目が輝い
 てきますから、
 「頼もしいわ、うちの人。あたしも駅の階段で転んでみよう」
  と、こうなる。
  まぁ、いつの世も、こういう話は尽きないようで。

亭主「お富。お前に話がある」
女房「なんですの。あなたは陽が落ちると、ソワソワしだしますね。また、家を抜け出そ
 うという魂胆ですか」
亭「いや、そういうわけじゃないよ。近頃どうも、夢見がよくない。そこで、本山へ厄払
 いのお参りに行ってこようと思ってな」
房「本山といいますと?」
亭「うちは曹洞宗なんだから、越前の永平寺だ」
房「近くのお寺では、いけないのですか」
亭「それがあまりにもひどい夢だから、近場で間に合わせることはできないんだ」
房「どんな夢なんですッ」
亭「お前が、患った夢なんだ」
房「いいじゃありませんか。あたしだって、患いますよ」
亭「それだけじゃないんだ。こともあろうに、お前が死んだ、という夢なんだ」
房「あなたはホッとしたんじゃありませんか」
亭「そんなことない、びっくりしたよ」
房「あたしはしょっちゅう、自分が死ぬ夢を見てますよ。逆夢ということがありまして、
 返って縁起がいいそうです。あたしは喜んでます」
亭「お前は物に動じない女だね。あたしは心配だ。行くとなると、天狗じゃァないのだか
 ら、今日行って、明日帰るというわけにはいかない。だから、どうしても五年から一〇
 年はかかるだろう」
房「馬鹿馬鹿しい。お参りに五年も一〇年も家を空けてどうするのです」
亭「なにしろ、ただのお参りじゃない。荒行をしようと思ってな。だから、五年から一〇
 年はかかる。このままじゃ、あたしは気が変になってしまう」
房「家でも荒行は出来ますよ。亡くなった祖父がよくやっておりました」
亭「どんな荒行だい」
房「香を焚くのです」
亭「香を焚いて、なにが荒行だい」
房「腕香とか、頭香とか言うそうですよ」
亭「なんだい、それは?」
房「腕の上で香をたくのが腕香。頭の上で香をたくのが頭香。香が漂い始めると、火も回
 り始めて、熱いのなんのッ」
亭「お前の顔を見てると、ほんとに熱そうだね。そういうのはあたしには向かないな。あ
 たしには、とてもそんなことは出来ない。やっぱり、本山へ行きたい」
房「本山の荒行のほうがもっと厳しいのですよ」
亭「『荒行』と言ったのは言葉の弾みだ。そうじゃない。おこもりなんだ」
房「単なるおこもりなら、うちでなさいませ」
亭「うちで?」
房「うちにも仏壇はあります。仏間もあります。うちでおこもりをなさいませ。一月でも
 二月でも、なさいませ」
亭「え? いいのかい、家でおこもり?」
房「出来るもんでしたら、どうぞ」
亭「いいけど、人の出入りあるだろう。気が散ってなんにもならない」
房「そりゃァ、あなたがいるか、いないか、確かめに様子を見にいきますよ。あなたから、
 目を離すわけにはいきませんから」
亭「それがいけないんだ。おこもりとなると、坐禅を組む。坐禅となると、瞑想に入る。
 様子見は無用に願いたい。<庫裏騒々にして坐禅得法なりがたし>といってな。出入り
 があると、坐禅にならないんだ」
房「食べる物だけでも運びますよ」
亭「単なる坐禅ではない。断食も兼ねるんだ。だから、それも無用に願いたい」
房「それはそれは、ご苦労さま。断食はたいそうお腹の空くものだそうです。あなたに堪
 えられますか」
亭「そりゃァ、断食だから、覚悟の飢え(上)さ」
房「そうですか」
亭「『そうですか』って…、だから、断食だけに覚悟の飢え(上)さ、ということなんだ」
亭「こっちは洒落を言ったんだから、ただ、『そうですか』ですませることはないだろう。
 『ヨウヨウ』とは言わなくても、『オホホホホ』ぐらいのことはやっておくれよ」
房「洒落や冗談でおこもりに入るわけではないでしょうッ?」
亭「そりゃァ、もちろんだよ」
房「急に断食はやるものではない、と聞いてます。体をこわすそうです。あたしも心配で
 すから、お夜食としてお茶とお結びを運びましょう」
亭「いいんだよ。子供が夜中に論語を学ぼうというわけじゃないんだから。じゃ、とりあ
 えず、今晩一晩だけでいい。おこもりに入る。その代わり、覗きに来ないでもらいたい。
 だいいち、気が散らないように、坐禅衾(ざぜんぶすま)を頭から被って着てるから、
 見に来たって顔も見られないぞ」
房「坐禅衾…? そんな物があるんですか…。わかりましたよ。じゃ、邪魔はいたしませ
 ん。できるもんでしたら、おやり遊ばせ」
亭「じゃ、これから、早速、仏間で坐禅にはいるよ」

亭「{店のほうへ来て}番頭さん。ちょいと、話があるんだがな」
番頭「はは…、どのような…?」
亭「帳場ではちょいと話がしにくいな」
番「奥へ伺いましょう」
亭「家内が出たり入ったりするから、まずいな。お前さんの部屋へ行こう」
番「あたくしの部屋はむさ苦しい所で、とても、旦那さまが入るような所ではございませ
 んで」
亭「いいじゃないか。あたしも奉公人の部屋なぞは入ったこともないが、でも、入っては
 いけない法というものもなかろう。あるいは、主に見られて困るようなものでもおあり
 か?」
番「そんな物はございませんで。では、いらしてくださいませ。
 {部屋の前に来て}どうぞ、お入りくださいませ」
亭「入らせてもらいますよ。
 {中へ入って}さすが、番頭さんだ。部屋はきれいにしてあるし。散らかってる物はな
 に一つない。番頭さんの人となりがそのまま部屋に表れている。本が並んでいるね。ど
 んな本を読んでいるんだい。二宮尊徳、上杉鷹山。佐久間象山、荻生徂徠、河村瑞軒、
 松下幸之助、本田宗一郎。番頭さんはこういう本を読んでるんだ。面白いのかい」
番「ゲラゲラと笑う本ではありませんで。しかし、商いには役立っております」
亭「ということは、この和泉屋が繁盛しているのは、番頭さんとこの本のおかげだ」
番「恐れいります」
亭「番頭さん。あたしはこの先も頼りにしてますよ」
番「恐れ入ります」
亭「そこで、お願いがあるんだけどね」
番「は。なんでございましょう」
亭「あたしは、今晩、仏間で坐禅を始める。これは家内も承知だ」
番「それはそれは。ご苦労さまですな」
亭「それについて、番頭さんに頼みたいことがあるんだ」
番「あたくしに出来ますことなら」
亭「ああ、出来るさ。番頭さんなら出来るさ」
番「おっしゃってくださいませ。どのようなことで? あたくしに出来ますことなら、な
 んでもさせていただきます」
亭「そこまで言われると、あたしも嬉しい。話もしやすい。ほんとに番頭さんは頼り甲斐
 がある。この和泉屋も番頭さんあればこそだ」
番「そんなにお褒めに与(あず)からなくても結構でございます。どんなことでしょう」
亭「あたしは坐禅の途中、野暮用で抜け出すつもりだ。その間、あたしの代わりに坐禅を
 してもらいたいのだ」
番「ホ−…。と、いうことは、おかみさん、ご承知で?」
亭「とんでもない。つまり…、家内に内緒で抜け出す」
番「野暮用とおっしゃいましたが、どちらへいらっしゃるんで?」
亭「おいおい。お前さんは馬鹿なことを平気で訊くね。男が内緒で抜け出す野暮用だよ。
 行く先は決まってるだろう。これだよ。{小指を立てる}」
番「ああ、ああ。鼻くそほじり」
亭「なんということを言うんだ、お前さんは。この指を見て、思い当たらないかい、男と
 して。ああ、放っぽらかしにしておいて、申しわけない。こう、痛みが走らないかい」
番「ああ、ああ。ヒョウソウ?」
亭「しょうがないな、お前さんは。堅物のお前さんには話が通じないな。実はな。先月だ
 った。さるお座敷でとてもいい芸者に出っくわしてな。それから、その子をちょいちょ
 い座敷に呼ぶようにしているんだが、ここんとこ、女房がうるさいもんで、表へ出てな
 い。というより、恥ずかしながら、出してもらえないのだ。番頭さんも、このところの
 家内の様子はわかるだろう」
番「あたしはいたって、朴念仁で、一向に…」
亭「わかっているくせに…。まぁいい。そういうわけで、その子に会ってないんだ。なん
 としても、座敷に呼んで会いたいんだ。この機を逃すと、今年は抜け出せないと思う。
 今晩のこの一晩は、本山に荒行に行くから五年から一〇年かかる、と三六〇〇倍の掛け
 値をして、やっと手に入れたんだ。だから頼むよ。
 なにしろ、いい子でね。もう、お前さんに見せたいな。いくら堅いという番頭さんで
 も、あの芸者を一目見たら、ヘタヘタヘタとその場に坐り込んでしまうだろうな」
番「ほ−、あたしが坐り込みますか」
亭「そりゃそうさ。名前は花子(はなご)という」
番「ホ−、珍しい名ですね」
亭「あたしは知らないんだが、狂言からとった名前らしいんだ。なにしろ、男好きのする
 器量だしね。多くの男が目をつけているんだが、まだ、手を出した男はいないようだ。
  あたしから見ても、どうも、可愛らしすぎてね。なんか、こう、手を出せない。でき
 たら、蕾のままでいて欲しい、と思ったりもするんだ。ああいうのが、男を焦らせる女
 になるのかな。いずれ、あの花子を手元に置きたいと思っているんだ。
  こないだ、別れ際に文を手渡されて、それっきりだし。どうだい。番頭さん。耕介さ
 ん。『うん』と言っておくれよ、『うん』と」
番「そう言われても、あたくしは困りますが」
亭「わけないだろう。お前さんが身代わりになって坐禅をしてくれればいいんだ」
番「旦那さまが色の道で、あたくしは仏の道ですか」
亭「そうだ。道は違うが真っ直ぐ進もうじゃないか、迷わずに」
番「あたくしには出来かねます」
亭「出来かねる?」
番「あたくしが坐禅の身代わりになったことが、おかみさんに知れたら、えらいことにな
 ります」
亭「大丈夫だよ。『様子を見にくると、厄落としにならないから、来るな』ときつく言っ
 てあるから、来ないよ。心配おしでない」
番「そうおっしゃいますが…、ああいう、おかみさんのことですから」
亭「ああいう、とはどういうことだい?」
番「ですから、ま、ご存じのように…」
亭「知らないよ、あたしは。家内はどういう女なんだい?」
番「ですから…」
亭「お言いよ。遠慮せず。店の皆さんが陰で言ってんの、知らないわけじゃないんだから。
 こないだ、浦の塀に落書きがしてあったのを見たよ。
  <妬きもちで 口うるさくて 大喰らい けちで不精で 昼寝大好き>
  と、こう言いたいんだろう」
番「そんな三十一文字も思っていませんで…、十七文字くらいなら」
亭「同じようなもんだろう」
番「旦那さま。先代様はお亡くなりになったときのことを覚えてますか。あたしの手を握
 って涙をこぼし、なんとおっしゃいました。あのおり、旦那さまもそばにいて、お聞き
 になったはずです。『伜を頼む。頼む』。かぼそい声で、おっしゃいました。
  あたくしも『かしこまりました』と返事をいたしました。まさか、お忘れではありま
 すまいな」
亭「覚えてるさ。だからこそ、こうして頼んでいるんだ。お前さんは、人の心が読めない
 ね」
番「色事の手助けはとうてい出来ません。先代の罰があたります」
亭「ああ、そうかい。わかった、わかった……。
  こないだ、家内と相談をしてな。『来年はそろそろ、番頭の耕介に暖簾分けをして店
 を持たせてやるか』って。しかし、こりゃ、当分、延ばしたほうがよさそうだな。五年
 先、あるいは一〇年先になるかな」
番「延ばしていただきましょう。先代様のご遺言にそむき、色恋に加担して暖簾を分けて
 もらったとあっては、申し訳が立ちません。かまいません。生涯、こちらで下働きでも
 結構でございます。あたくしを飼い殺しになすったらどうですッ」
亭「番頭さんには負けました。番頭さんが羨ましいよ。たとえ、下働き、飼い殺しでも、
 その間、仕事で外へ出られるだろう。そこへいくと、あたしはね。この分では、一生、
 外へ出られないんだよ。牢に入ってるようなもんだ。
  誰か、あたしを救い出してくれる者はいないかァ…。あたしは和泉屋の主なんだ…。
 和泉屋万蔵なんだ…」
番「泣かないでくださいまし。泣かれると、あたくしも、つらくなります」
亭「あたしだって、一家の主として、番頭さんの前で泣きたくはないよ。出来ることなら、
 この涙を花子に拭いてもらいたいよ」
番「涙ぐらいでしたら、あたしが代わりにお拭きましょう」
亭「すまないね、番頭さん。今晩、あたしをここへ泊めておくれ」
番「いけません、それは。では、仕方ありません。一晩だけ身代わりになりましょう」
亭「本当かい!」
番「その代わり、ほんとに、おかみさんが見にくることはないでしょうね」
亭「大丈夫だ。くれぐれも来ないように言ってあるから。それに、仏間に坐禅衾という着
 物がある。坐禅をするとき、頭からすっぽりと被る物だ。それを被っていれば、仮に、
 見られたって、顔は隠れているから、身代わりだということまでは、わかりゃしないよ」
番「かしこまりました」
亭「頼むよ。とりあえず、あたしは先に仏間に入ってますから、頃合いを見計らって、人
 にわからないように忍んできておくれ」
番「はい」

  そのうちに、店も仕舞いになります。奉公人も食事がすみ、床に着いたよう様子。
番「旦那さま」
亭「おお、番頭さん。来てくれたかい。大丈夫かい、他の者に?」
番「はい」
亭「じゃ、早速に頼もう。この坐禅衾を被っていればいいんだから」
番「そうですか」
亭「朝方までには帰ってくるから」
番「それも心配の種なんです。必ず、明け方までには帰ってきてくださいよ。これが昼間
 になれば、いろいろ出入りがありますから、身代わりももたなくなりますから」
亭「わかってる、わかってる。大丈夫だ。裏の戸をあけといておくれよ」
番「大丈夫ですよ」
亭「じゃ、行ってくるぞ。行ってくるぞ」
番「さっきまで泣いてた人とは思えないね、まったく」

  こんなことまで知らないおかみさんは、夜中、目を覚ましたとき、やはり、気になる
 とみえて、寝間着の上にちょっとした物を引っかけて、仏間へやってきた。
房「感心に坐禅をしてようだね。まぁ、妙なものを被って。
 {坐禅者に小声で}あなた。あなた」
番「やっぱり来たよ。いわないこっちゃない。どうしよう。南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華
 経。南無大師遍照金剛」
房「あなた…? おや、本が置いてある。<孫子の兵法>…? <敵を知り、己れを知れ
 ば百戦危うからず>…? うちの人は妙な本を読んでんだね。
 {坐禅の者に}あなた。あなた。ご苦労さま。お腹はすきませんか?」
番「{首を横に振る}」
房「そうですか。お腹は大丈夫ですか。でも、どうしたんです? そんなに震えて? 風
 邪でもひいたんですか」
番「{首を横に振る}」
房「風邪じゃないんですか。じゃ、どうしたんです? 心配になってきました。この被り
 物をとりなさいな」
番「{衾を離さない}」
房「なぜ、おさえているのです? この手を離しなさい! あッ番頭!」
番「あッ。お初にお目にかかります。明けましておめでとうございます」
房「なんだって、お前が坐禅をッ?」
番「旦那さまに無理矢理に頼まれまして、断わり切れずに」
房「畜生、畜生。腹が立つ、腹が立つ。で、うちの人はどこへ行ったんだいッ」
番「確か…、花子様のところへ」
房「そのような女に様を付けるやつがあるか、めと言え、めと。二人して、あたしを騙し
 たね」
番「あたくしはそのつもりはございません。早い話が、旦那めが女房めを騙しましたんで」
房「めとはなんだ! そこは様と言いなさいッ。腹が立つ、腹が立つ。顔も見たくない。
 向こうへ行きなさい」
番「旦那さまとの約束がありますので、坐禅はせめてこのまま朝まで」
房「朝に戻ってくることになってんのかい」
番「へえ」
房「じゃ、坐禅はあたしが身代わりになって続けますから」
房「驚くでしょうね」
番「それでは、あたくしは旦那さまとの約束を破ることになります」
房「いいんですよ。お前はあたしの言うことが利けないのかい。そうかい。わかった…。
 こないだ、家の人と相談をしたんだ。『来年はそろそろ、番頭の耕介に暖簾分けをして
 店を持たせてやりましょうか』って。しかし、こうなると、当分、延びそうですね。
 二〇年先、あるいは三〇年先に」
番「えらい伸びようだ」
房「その坐禅衾を脱いで、こっちにお渡し」
番「はい。{脱ぎながら}でも、旦那さまはお帰りなって、この衾の中のおかみさんを見
 て、心の臓を止めて、それっきりになるだろうな。どっちにしても、暖簾分けは伸びそ
 うだ」房「なにをトロトロ言ってんだい。{衾を着ながら}あたしはこれを被って待っ
 てやる。ああ、腹が立つ、腹が立つ。
 {番頭を見て}お前は、早く向こうへお行き」
番「どうぞ、お手柔らかに」

亭「女と逢うのもいいが、別れがつらいよ。
  あたしが帰ろうと、羽織を着て紐を結ぶと、『帰しませんよ』って、花子が結んだ紐
 をほどく。『帰らないわけにはいかないよ』と、あたしが結ぶと、花子がほどく。結ん
 だり、ほどいたり。羽織の紐がクタクタになっちまった。
  裏の戸は…? {戸に手をかけて}開いてる、開いてる。番頭さんは確かな男だ。ち
 ゃんと、裏の戸は開けといてくれた。これで、あとは、仏間へ行って、番頭さんと入れ
 代わればいいんだ。しめしめ。{暗い廊下を手探りで歩く}こうして、手探りで歩いて
 ると、まるで、泥棒みたいだ。
  <和泉屋の 蔵の小判は 尽きるとも 世に浮気者 種は尽きまじ>
 {仏間を少し開けて中を見て}やってる、やってる。坐禅をやってる。
 {坐禅者に}番頭さん。ご苦労だったな。今、帰ったぞ。山の神は来なかったろうな」
房「{首を縦に振る}」
亭「そうか。やはり、来なかったか。よかった、よかった。<思い内にあれば、色ほかに
 現わるる>というが、さとられずにすんだ。よかった、よかった。
  番頭さん。おかげで、花子も喜んでくれてな。話をするから、衾をとりな」
房「{首を横に振る}」
番「いやなのかい? 坐禅が気にいったのかい? ああ、そうか。お前さんは名題の堅物
 だ。あたしの色の道の話はまともに聞きたくないと言うんだ。じゃ、いいよ。被ったま
 まで聞いておくれよ。あたしは黙っていられない質でね。
  あたしは、座敷で待っていた。花子がなかなか来ない。こっちはじれて、いたずらを
 してやろうと、他の部屋に身を隠した。
  と、花子がやってきたんだろう。部屋に入った様子。そこで、あたしは隠れてる部屋
 を出て、花子のいる部屋の戸をほとほと叩いた。
  すると、花子が『どなた?』ってんだよ。
  あたしはここで、ちょいと、『腹立ちや、腹立ちや』ってやつだ。言ってやったよ。
 『人をさんざっぱら待たしておいて、『どなた』」もないもんだ。<誰ぞとは 人二人
 待つ迎えよう>。あたしは帰るぞ』
  と、花子が『いやッ』と言って、立ち上がると、慌てて戸をツーッと開けて、あたし
 にドーンとぶつかるように抱きついてきたよ。こういうときは、花子の顔より匂いが先
 にプーンとくるもんだね。わかるかい、番頭さん」
房「{体を震わす}」
亭「なんだい、番頭さん。いらいらしているご様子だね。あたしが女にもててんのが悔し
 いのかい? まぁまぁ、落ち着いてお聞きよ。
  花子がね、『先日の文は読んでくれましたの?』『もちろん、読んだよ』『読んだあ
 と、どうせ、破いて捨てたんでしょうね』『そんなことするものか。こうして、女房に
 わからないように、ちゃんとしまってあるさ』『どこへしまってあるの?』
  おい、番頭さん。その文をあたしがどこへしまったと思う? わかるかい?
房「{首を横に振る}」
亭「わからねぇだろうな、堅物の番頭さんには。教えてやろうか、隠し所を」
房「{首を縦に振る}」
亭「よし、教えてやろう。花子にも教えたんだから。『お守りの中に忍ばせて、肌身離さ
 ず持っているんだよ』と、それを見せたら、『嬉しいッ』って、しがみついてオイオイ
 泣くんだよ」
房「{体を震わす}」
亭「見せようか、番頭さん。これだよ。お守りは。この中に入っている。読ましてやろう
 か。ありがたく押しいただいて読んでごらん。女房には内緒だよ。番頭さんだけに見せ
 るからね。受け取らないね。人の色文は読みたくないの?
  じゃ、読んで聞かせやしょう。
  <更けゆく鐘 別れの鳥も ひとり寝る夜は さはらぬものを>
  わかるかい、番頭さん。つまりね。『夜更けを知らせる鐘の音も、別れを促す鳥の声
 も、一人寝の夜はいっこうに邪魔にはならないよ。だけど、二人になったときはそうは
 いきませんよ』ってんだ。
  読んでごらんよ。{無理に押し付けるように差し出す}」
房「{丸めて放る}」
亭「おい、乱暴なことするなよ。番頭さんも妬き持ち焼きだね。いけませんよ、人の物を
 そうやって邪険に扱っちゃ。
 {文の皺を伸ばしながら}それから、二人で酒肴。さいつ、さされつ。こうつ、こまれ
 つ。飲んだね。
  花子がね。『奥方はどのようなお方なの?』と言うから、『我が女房の顔は、百年に
 一度、夜空に輝く星だ』と言ってやった。そしたら、花子が『さぞや、お美しいことで
 ございましょうね』と、こう言うじゃないか。あたしゃ、一人で大笑いしちゃったよ。
 わかるかい、番頭さん。<百年に一度、夜空に輝く星>という顔は?」
房「{怒りを抑えて、首を振る}」
亭「わからねぇだろう。教えてやろう。<二目と見られぬ>というんだ。アッハッハッハ
 ッ」
房「{怒りを抑えて、足拍子から、跳び上がる}」
亭「番頭さん、そんなに喜ぶなよ。
  花子がまた訊いてきた。『二目と見られぬ、とは、どんな顔?』
  それから、また言ってやった。『<立てば癇癪、座れば不満、歩く姿がブスの花>』
  そしたら、花子が『そうおっしゃても、わかりませんよ。どんなお顔なの?』と訊て
 くるんだ。
  面倒だから、『こんな顔だッ』って、拵えて見せてやったら、『キャァー』っと、悲
 鳴を上げたよ。
  そしたら、『本物を見てみたいわ』ってから、『じゃ、今度、それとなく見せてやろ
 う』と約束してきたよ。だから、番頭さん。いつか一度、間に入って、この話をまとめ
 ておくれ、頼むよ」
房「{首を横に振る}」
亭「なんだい、いやなのかい。いやなら、いやでいいけど、もうそろそろ衾をとりなよ。
 話がしにくくていけないよ。やっぱり、話は目と目を合わせてやらないと、通じるもの
 も通じないことがあるんだ」
房「{震える}」
亭「風邪でもひいたのかい?」
房「{首を横に振る}」
亭「そうじゃないの? 風邪だったら、もう一枚、坐禅衾をかけてやろうと思ってさ」
房「{首を横に振る}」
亭「いいのかいい。じゃ、そのままで聞いておくれ。ぜひ聞いてもらいたいのは、朝の別
 れだ。生々しく、まだ、こう、残ってる……。
  <衣々の別れ 二人は 冷めたお茶を 飲み干し……
   さよならの お刺身 笑いながら 交わした……>
  てなもんだ。
  あたしが都々逸を唄ったんだ。
  <思う人との 別れのつらさ 思わぬ人との 添うつらさ>
  わかるかい。{泣き声で}
  あたしが泣き出したら、花子も泣いてくれた。
  器量のいい女が泣くと、またいい。一幅の絵になるね。山の神が泣くと、もう殺すよ
 りしようがない。なにしろ、こんな顔だからな」
房「{坐禅衾から頭を出して}こんな顔で悪うございました」
亭「あッ、お富。お初にお目にかかります。明けましておめでとうございます」
房「腹が立つ、腹が立つ。あまりにも、情けない」
亭「あたしもそう思う」
房「なにがそう思うです!」
亭「そんな大きな声を出すと、みんなが起きてくるぞ。みっともない」
房「みっともないのは、あなたです」
亭「落ち着け。落ち着け」
房「落ち着いていられますか」
亭「番頭はどうしたんだ。
 {良介を見つけて}あ、良介。番頭の耕介はどこにいる?」
良介「この店には『煩悩が渦を巻いている』とおっしゃって、先ほど、自分の部屋で坐禅
 を始めたようです」
亭「なにも番頭までが本当に坐禅をすることはないだろう。自分の部屋でやってるのか。
 よし。
 {番頭の部屋に入って}番頭ッ。番頭ッ。そんな物を被って、なに震えてんだ。風邪を
 ひいたのかッ」
〇「南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華経。南無大師遍照金剛」
亭「なにをわめいているんだ。被り物をとれッ」
〇「{かぶりを振って衾を放さない}」
亭「いいから、手を放しなさいッ。{衾を毟り取る}あッ。お前は小僧の二三蔵ッ」
二「あッ。お初にお目にかかります。明けましておめでとうございます」
亭「なにを言っている。お前は番頭に頼まれたのかッ」
二「{泣きながら}『代わりに坐禅をしろ。さもないと、手代になるまで、三〇年、五〇
 年』。無理矢理にあたしを身代わりにして、表へ飛んで行きました」
亭「どこへ行ったんだ」
二「あたしにはわかりません」
亭「こんな明け方に、どこへ行ったんだ!」

番「そろそろ帰るとするか」
女「来たばかりじゃないの。帰っちゃいや。どうしても、もう帰るの、番頭さん…?」
番「もう、昼過ぎてるしな。今度は、ゆっくり来るから」
女「それにしても、驚きましたわ。明け方くるんですもの」
番「あたしも来るつもりはなかったんだが、あまりにも店が煩悩だらけでいやになった。
 堅物を装っての隠れ遊びも虚しく思えた。そうなると、無性にお前に逢いたくなってな。
 小僧に身代わりの坐禅をさせて、店を飛び出してきたんだ」
女「お店のご主人に知れたら、どうすんの」
番「その時は、その時さ。それよりも、お前こそ、あたし以外の男に、身も心も奪われる
 ことはないだろうな」
女「広い世間にどんなに男がいても、あたしにとっての男は番頭さん、耕介さんだけよ」
番「お前にそう言われると、あたしも安心して店に戻れる」
女「つまらない心配はしないで、耕介さんッ。{握った番頭の手を抓る}」
番「痛い。わかったよ、花子。{花子の鼻をつっ突く}」

2000・1・10 UP