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 窓門会文庫

落語と狂言の交わり江戸落語風俗抄落語の中の古文問答カル日記噺のような話まるがお通信 | 弥助のギリシア教育論 




第七回 卯月の巻[学問の噺]
                           筆柿しめす  落 柿 庵


「ピッカピ−カの一年生」というCMを思い出す、入学式の盛んな4月でございます。
 現今は誰もが6才の4月から義務である初等教育が始まりますが、江戸庶民の初等
教育はどのようになっていたのでしょうか。
 江戸時代には義務教育がありませんから、庶民の子供が教育を受けるか受けないか
の選定は親の意思に任されていました。武士は人の上(かみ)に立つことを制度的に
も精神的にも求められていましたので、その子弟には教育を受ける義務がありました。
学問のない武士は出世が望めない社会でしたから、武士の子弟が教育を受けるという
ことは身分制度上の義務でしたが、道義としての義務でもありました。
 町人は、社会生活を送る上での最低条件として仮名文字くらいは読み書きできなけ
れば困りましたので、学問としてではなく生活上の必須事項として多くの子供が初等
教育を受けていました。


 江戸の初等教育の場を「寺子屋」と言いました。教えるにも教わるにも何の制約も
受けない私塾です。幕府の許可を得なくても、誰もが好き勝手に開設することができ
ました。
 寺子屋の指導者は「師匠」と呼ばれました。師匠になるにも制約がなく、特別の資
格も必要ありません。とは言うものの、基礎知識のない子供達に大切なことを教える
のですから、師匠には学問の素養が必要です。教養があり、知識も豊かな当時のイン
テリが師匠になりました。隠居した武士、務め先のない浪人と言われる武士、学者、
僧侶、神官、ご隠居さんと呼ばれる隠退した老人、武士の娘、武家奉公で教養を身に
つけた女性など多士済々でした。
 世の中が安定してからの武士は、漢詩や漢文を読み書きできなければ務まらない立
場にいて教養もありますから、子供達に読み書きを教えるにふさわしい人達です。そ
の面に置いては、浪人も同じです。学問を見につけ親の信頼も厚い学者や僧侶や神官
が、子供達にものを教えるというのも当然のことです。
 ただ、武士や学者達には共通の弱点がありました。そろばんの技能や帳面付けの知
識に欠ける人が少なくなかったことです。また、男師匠の多くは格調高く立派な人が
多い反面、どうしても教え方が厳しくなる傾向がありました。武士の子はその方が良
いのでしょうが、庶民の子は敬遠しがちです。
 一方、女性の師匠は男性にないソフトさがあり、女性特有の裁縫技術や茶華道など
嫁入り修行に役立つ事柄を会得していることもあって、子供達にも親達にも人気が高
く、とくに女の子から好かれました。男師匠の場合は、多かれ少なかれ奥方の協力が
必要だったようです。夫婦で師匠というケ―スも少なくありませんでした。


 寺子屋教育は義務ではありませんから、何才から通うという決まりはありません。
何月から始まるという規定もありません。親の都合と子供の生育具合を勘案して師匠
に願い出で、許されるとその日からでも師匠の元へ通い始めたのです。当時の風習と
して「習い事は六才から」というのがありましたので、そのくらいの年齢から通い始
める事例が多かったようです。
 長屋に住む一般的な庶民の子供は、男の子は職人か商家に奉公し、女の子は上手く
行けば武家奉公に、一般的には商家に奉公するか嫁入り前の修行を続けるというのが
通例でした。男児は早ければ八、九才から遅くても十二、三才までには奉公のため親
元を離れて家を出ます。男児の寺子屋通いは、それ以前に済ませることになります。
 女児は進む道がいろいろと分かれますし、奉公へ行くにしても男児より年嵩になっ
てからとなりますので、男児よりも寺子屋の在籍年数が長くなる傾向がありました。
 落語には、字が書け、裁縫などの手仕事が出来、亭主よりも社会常識があるしっか
り者の女房が出てくる噺が沢山あります。それらは噺を面白くするためのフィクショ
ンというだけではなく、女児の方が寺子屋在籍年数が長くなることから生まれた現象
で、当時は何処の長屋にもよく見られた事例だったように思います。当人の意思に関
わらず、奉公のため早めに寺子屋通いを止めざるを得なかった男の悲哀が、このよう
なところにも現れているのです。男性よりも女性の方が海外旅行の経験が豊富なとこ
ろから生まれる現代社会現象の悲喜劇と、よく似ているような気がします。江戸庶民
の女性全てが男尊女卑生活を送っていたのではないことが、このような例からも判る
のではないでしょうか。


[雛鍔(ひなつば)]で、八才になる植木屋の倅が裏に波が書いてある銭(四文銭)
を拾って来ます。倅は四文銭を知っているのに「これはお雛様の刀の鍔かな?」と惚
けます。


  大旦那「・・・・えッ、あの子おあし(銭)を知らないのかい?
      ――(略)―― 植木屋さんの息子さんがおあしを知らないとは鷹揚に
     育てなすったなぁ。
      ――(略)―― おじいちゃんがなぁ、ご褒美上げよう。
      ――(略)―― あ、おあしをしらないのか。じゃぁご褒美におあしを
     上げても無駄だ。
      ――(略)―― お手習いの道具はどうだ?揃ってない? そりゃぁい
     い、今度来るときにナ、お机から筆、墨、硯、お手本まで書いて貰ってネ、
     そっくり揃えて――」
                        ( 三代目 三遊亭 金馬 )


 隠居した大旦那が用意してくれると植木職人の倅に約束したものは、寺子屋に通う
道具一式のことです。
 寺子屋に通う子供は、入塾初日に机を持参しました。勉強が終わると、机を所定の
場所に整頓して帰ります。机は寺子屋に置いたままにしておく物でしたから、子供が
寺子屋から机を担いで帰ってくると、それは子供が許されざる悪さをして師匠から寺
子屋を放逐されたのか、子供が明日から奉公に出るのでもう寺子屋には通わないのか
を意味していました。


 寺子屋には卒業がありません。武士の子は、ある程度の素養を身に付けるとさらに
高い学問を修得するため、師匠などの推薦を受けてより高度な私塾に通います。庶民
の男児は、奉公に行くことが寺子屋の卒業でした。庶民の女児は進む道が分かれ、奉
公に行く子はそのときが卒業になり、踊りや唄や三弦などの稽古事と本格的に取り組
むことにした子は自然に卒業となりました。
 庶民の女児にとって武家奉公(屋敷奉公ともいう)は大きな夢でした。将軍家の大
奥務めは最高の名誉ですが、そこまでは行かないまでも大きな屋敷を構える武家への
奉公は、当人も親も大層な自慢でした。娘の屋敷奉公経験は資産家へ嫁入りする際に
立派な肩書きとなりました。


山崎屋]では番頭さんが一芝居打って、若旦那の惚れた吉原の花魁をお屋敷務め上
がりの娘に仕立てて嫁に迎え、世間知らずで堅物の大旦那をすっかり誤魔化してしま
います。
 武家に奉公した娘は自然に教養が備わり立居振舞も見につけ、一般庶民の中だけで
育った娘とは大違いだったのです。娘を採用するときには、屋敷側も娘を厳しく吟味
しました。読み書きは勿論、屋敷務めにふさわしい素養を求めましたが、さらに、踊
りや三弦など何か一芸のある娘が重宝されました。武家に奉公するにも商家に奉公す
るにも、一芸を持つ娘の方が採用に有利だったのです。
 また、芸事を身につけた娘は、屋敷奉公をしない場合でも、将来、芸事の師匠とな
って女一人で生きていくことが出来ましたから、江戸の庶民は親も娘も将来を考慮し
て芸事修行に力を注いだのです。


 明治になってから、江戸中心部(現在の千代田区、中央区、台東区の一部、港区の
一部、本所・深川地域)の寺子屋を調査したデ−タが残っています。寺子屋が三百軒
弱、男師匠が三百四十人弱、女師匠が百八十人弱、男児が二万人弱、女児が二万八千
人弱となっています。これによりますと、女師匠が決して少なくなかったことが判り
ます。男児よりも女児の人数が多いのは、前述したとおり、男児は早めに奉公に行く
ので女児の方が寺子屋在籍年数が長くなったからです。
 長屋住まいというと直ぐに食うや食わずの貧乏生活を連想しがちですが、長屋に住
んでいたからといって必ずしも皆が食うや食わずだったわけではありません。毎日の
生活の中で、子供を寺子屋に通わせ習い事をさせる余裕もあったのです。長屋住まい
の人々の生活が経済的には贅沢でなかったかも知れませんが、精神的にはゆとりのあ
る生活を送っていたのです。非支配階級に属する庶民が義務ではない子供の初等教育
に力を入れ、その当時、世界に比べようのない識字率の高い社会を作り上げたのです。
 この社会が「官」によって作られたものではなく、庶民階級である「民」によって
作られたところにより偉大さを感じざるを得ません。
 筆者は、落語の舞台となっている長屋の親達の、子供教育に力を注いだ人生選択、
それを維持し続けた努力と勤勉に頭が下がります。
                      では、また来月お目に掛かります。
                               落柿庵 敬白

2003・10・26 UP








第六回 弥生の巻[花見の噺]

                           筆柿しめす  落 柿 庵


 水ぬるむ春3月でございます。
 馥郁たる梅花から桃花へと替わり、やがて爛漫と讃えられる桜花の季節へと移って
参ります。
 四季夫々を愛で四季の草花に心を動かす日本人は、全国何処へ行っても「花」と言
えば「桜」を想い、「花見」と言えば「桜の花を見ること」ときめています。落語の
世界も同じです。
 江戸の街は武家屋敷と寺社地が八割以上を占め、それらの庭には必ずと言ってよい
ほど桜の樹がありましたから、市中何処でも桜の花を見ることに困るようなことはあ
りませんでした。
 しかし、塀越しにお屋敷や寺の桜の樹を仰ぎ見たからと言って、庶民は嬉しいもの
ではありません。花の下に敷物をひろげ、食べ物を並べて一杯飲みながら皆で談笑す
る、これこそ「花見」です。
 現在は、桜と言うと染井吉野種が主流になりましたから、何処の桜も一斉に咲いて
一斉に散り、花を楽しむ期間がとても短いのですが、当時は山桜が主流で一重から八
重まで種類も多くありましたので、花の期間は現在よりも長く続きました。
 江戸に住む人々がこぞって桜を鑑賞した場所は随所にありましたが、上野、飛鳥山、
向島堤が江戸の三大花見の名所でした。


 上野山内(東叡山寛永寺)
   現在の上野公園。当時は東叡山の寺域(境内)です。現在の「上野鈴本」の前
  を上野公園に向かって進むと、左手前方に不忍池が見え、右手前方にJR上野駅
  が見え、正面に上野公園入り口の階段が見える交差点があります。
   当時は、不忍池から溢れた水がここを通って三味線掘へ流れていました。三橋
  と書いて「みはし」と言いました。その名は甘味屋さんの屋号として今に残って
  います。
   現在の公園入り口階段の所に、寛永寺境内へ入る門がありました。これは寛永
  寺の山門ではなく、境内への人の出入りを制限するための木柵の門です。全体が
  黒く塗られていたので俗に「黒門」と呼ばれていました。
   町名として残っている黒門町の由来はこの門にあります。寛永寺は徳川家の菩
  提寺ですから警備が厳重で、外部の者は夜間に境内へ立ち入ることを禁じられて
  いました。毎夕、人々は警備の者に門外へ追い出され、黒門は翌朝まで固く閉ざ
  されたのでした。
   黒門を入って真っ直ぐの位置、現在の動物園前の広場から噴水を抜けて国立博
  物館まで続く位置に、いろいろな堂塔など寛永寺の伽藍が連なっていました。
  [崇徳院]の、純情な若旦那とどこやらのお嬢さんが茶袱紗と短冊半分とを取り
  交わした清水堂は、今でも不忍池に向かって舞台を迫り出しています。ここから
  は、眼下の池に浮かぶ弁才天の向うに本郷、湯島、御茶ノ水の高台が望めました。
   不忍池周辺は江戸の賑わいから遠ざかった静かな景勝地でしたので、池の対岸
  にはデ−ト客専用の出会い茶屋が沢山並んでいました。
   普段は厳しい警備の境内も花の期間は厳しさも緩み、花を愛でる江戸人が大勢
  集まりました。境内では、酒と唄は許されましたが鳴り物は禁止されたそうです。
   清水堂のそばに幕を張って花見を楽しむ人が集ったようで、泥酔者は見られな
  かったようです。将軍家の菩提所だけに、山内には参詣を兼ねた地方藩の武士の
  姿が多く見られました。武士は普段から町人と揉め事を起こさないよう注意され
  ていましたので、参勤交代で藩主について来た地方藩の武士達は、酔客の多い他
  の花見名所を避けてここに来ることが多かったようです。


 飛鳥山(あすかやま)
   ここの花は八代将軍吉宗が故郷和歌山の吉野から取り寄せて植えた桜、と俗に
  言われています。上野の花が散ってから咲いたと言われますから、本当に吉野の
  桜だったのかもしれません。
   近くには[王子の狐]で知られる王子権現や卵焼きで有名な扇屋などの茶屋が
  並び、名勝名主の滝もあって江戸郊外にある江戸っ子好みの散策地でした。
   ひところ、[愛宕山]の旦那が小判を代用品として放ったことで知られる土器
 (かわらけ)投げが、ここ飛鳥山でも行われていました。山の下に田を持つ農民か
  ら苦情が出たので、ここの土器は田に落ちても直ぐに土に戻るよう焼き物ではな
  く泥土を固めた物を使いました。既に環境公害問題が派生していたのです。しか
  し、江戸の人達は皆が満足する解決策を講じていました。現代人よ見習うべし、
  です。
   ここは酒食も唄も鳴り物も仮装も自由に許されていましたので、花見の時節は
  上野には見られない賑わいがありました。


 向島(むこうじま)
   大川(隅田川)を挟んで浅草の対岸になります。桜の樹は大川の土手を補強す
  るために植えられたものです。江戸市中には大川に通じる沢山の掘割がありまし
  たので、江戸市中から向島に行くには、てくてくと陸(おか)を歩かずに舟で行
  くのが粋な方法でした。歩いて行くにしても吾妻橋を渡るのではなく、山谷掘り
  から「竹屋の渡し」で行くことも出来ました。
    周辺には幕府の重要施設がありませんので、花見に掛かる制約は何もありませ
  んでした。浅草、本所、向島の庶民大勢が楽しむ場であるとともに文人墨客など
  風流人も集る花の名所でした。


 日暮(ひぐらし・日暮里)
   上野の少し先ですから江戸市中から遠くはありません。上野のような花見に関
  する制約は何もありませんでしたので、ひところは向島よりも賑わったと言われ
  ます。


 御殿山(ごてんやま)
   川近くのここ一体は、春は桜に秋は紅葉と人々に愛されていました。周辺には
  寺が多くありましたので、それぞれの境内が格好の花見場所でした。ここに多く
  の人が集ったのは、吉原に次ぐ歓楽地だった品川宿の存在が一役買っていたので
  す。


 小金井堤(こがねいづつみ)
   江戸からおよそ六里の地にあるここは「・・・・朝とく出ずれば日のあるうち
  に戻り、彼地に一宿すれば花を詠める外にも草々の愉しみ・・・・」と書き残さ
  れているように、江戸市中からは遠かったのですが文人墨客はわざわざここまで
  足を伸ばしたのでした。


 さて、落語の舞台になった花見の場所は何処だったのでしょうか。次に落語から検
証してみましょう。


 [花見の仇討ち]
   友達4人組が浪人、巡礼、六部に仮装します。江戸では素人芝居が盛んでした
  し花見に仮装は付き物でしたから、仮装用具のレンタルは簡単なことでした。彼
  等の筋書きでは、敵討ち芝居の後で酒肴をひろげてこれは花見の趣向、と洒落る
  つもりでした。
   仮装ですから姿形をよく見れば判りそうなものを、本物の敵討ちと勘違いする
  ような地方藩の武士が沢山見られたのは上野山内が一番です。しかし、上野は厳
  しく警備されているので、本身ではないにしても刀を抜いて切り合えば助太刀の
  武士が現れる以前に警備の武士に取り押さえられ、仮装した彼らは重い裁きを受
  けることになります。江戸っ子はその厳しさをよく知っていますから、危険を冒
  してわざわざ上野山内を選んだとは考えられません。
   この噺の舞台は、仮装も酒も三味線も制約なしで自由に愉しめ、刀を抜く芝居
  をしても罪に問われることがなく、粋な敵討ちだと喝采してくれる洒落の判る江
  戸っ子が大勢集まる桜の名所「飛鳥山」だったでしょう。


 [長屋の花見]
   貧乏長屋は上野、浅草、本所界隈に多くありましたから、庶民の花見客が多い
  「向島」が一番ふさわしいでしょう。
   ところで、長屋中が大家さんの一声に逆らわなかったのは何故でしょうか。
   江戸の大家さんには、店子(たなこ)に関して日常の面倒を見るほかに、現在
  の区市町村役所窓口業務の一切を取り仕切らねばならない義務がありました。で
  すから、口は達者で仮名文字は読めても四角な字で書く書類などを作ることの出
  来ない店子達は、大家さんに逆らうどころか大家さん抜きでは生活が立ち行かな
  かったのです。大家さんの言うことに従っている方が日々の生活に間違いがなか
  ったのです。大家と言えば親も同然店子と言えば子も同然、文字通り貧乏長屋の
  大家と店子は正に親子のような生活を送っていたのです。
   この噺の大家さんは人情家で、毎日の生活に疲れている長屋の人々に少しでも
  心のゆとりを与えたかったに違いありません。大家さんは花見の翌日にでも、そ
  の日暮らしの長屋の住人が花見で仕事を休んだ見返りに家賃を割り引くなど温情
  を示したであろうと、筆者は期待を込めてそう信じています。


 [花見酒]
   大の男が二人して、工面して用意した酒を茶碗に一杯ずつ売り歩こうとしたの
  です。それを買う客層を想像すると、この噺の舞台は「向島」以外に考えられま
  せん。


 [花見小僧](別名 お節徳三郎・上)
   清水堂が出て来ますから、「上野」です。
   ちなみに、この噺の後半は[おせつ徳三郎 下(刀屋)]になります。


 [百年目]
  「向島」です。
   芸者、幇間、唄や三味線の師匠などを連れた花見になりますと人も荷物も多く
  なるので、船で行くことになります。舟は、疲れない、中でくつろげ酒食や三弦
  を楽しめるなど様々な面で歩くよりも優れていますが、まことに高価な方法でし
  た。懐に余裕がないと出来ない贅沢でした。
   番頭さんの給金だけで出来る遊びではありません。誰でも番頭さんの使い込み
  を疑ってしまいます。しかし、一晩掛かって帳面を調べた大旦那は、この遊びを
  番頭さんの使い込みとは判断しませんでした。長年に渉って見世(みせ:現代の
  会社)の経営から従業員の教育まで一切を番頭さん一人に任せ切りにしていた大
  旦那は、今回の出来事を、小僧時分から今日まで見世一筋に忠実に働いてきた番
  頭さんの息抜きであり、費用は見世の必要経費であると判断したのでした。
   当時の番頭は、見世一筋の生え抜きでなければその地位を与えられませんでし
  た。番頭には、見世の経営、従業員の監督と教育、次の経営者になる若旦那の教
  育、取引先との交渉や接待など、一切を任されていました。絶大な権限を与えら
  れている反面責任も重大で、忠実な人であればあるほどそのストレスは大変なも
  のがありました。
   この噺の大旦那はそれを見抜いて、近い将来の暖簾分けを番頭さんに約束しま
  した。
   筆者は、番頭さんがやがて開く新しい見世の繁栄を祈りつつ、隅田川河畔向島
  で一献傾けながら今年の花を楽しもうと想っています。
                      では、また来月お目に掛かります。
                                   落柿庵
                                    敬白
2003・3・16 UP








第五回 如月の巻[火事の噺]

                           筆柿しめす  落 柿 庵


 たまたまですが、旧暦の元日が1日(土)、それが今年の2月です。
 2月は火災の多い月です。東京消防庁のデ−タによりますと、火災原因の第1位は
放火で、自然火災の第1位はタバコの不始末です。
 江戸名物の一つに数えられた火事ですが、江戸の出火原因は、家中の火の不始末と
放火でした。当時は、常に火種を絶やさないように夏でも灰の中に炭火を蓄えておく
ことが習慣でしたし、照明が油を使う行灯(あんどん)や倒れやすいロ−ソクだった
のですから、無理もありません。
 建物や家具の主材が木材だったのですから、火が出るとたちまちの内に燃え広がる
のでした。風の強い江戸では大きな火災になり易く、町家や武家だけではなく将軍の
住まう江戸城さえも、幾度も猛火に包まれたのでした。
 幕府は主だった大名十数家に消防組織作りを命じ、江戸城をはじめ蔵前や本所の米
蔵と材木蔵、寛永寺や増上寺、湯島聖堂などの消火に当たらせました。
 幕府の命ばかりでなく、大名家では自分の住まいを守るために独自の消防組織を持
ちました。これが、「大名火消し」と言われるものです。
 大名火消しは定められた所と自分の住まい以外の消火には当りません。そこで、幕
府は、武家、寺社、町家など一般建物の消火に当る幕府直轄の消防組織を作りました。
これを、「定火消し(じょうびけし)」と言います。
 旗本十家がその任に当りました。旗本の下に与力、同心が配属され、その下に中間
(ちゅうげん)が雇われました。この中間のことを「臥煙(がえん)」と言いました。
 定火消しは江戸城周辺の地域しか担当していませんでしたので、将軍吉宗の享保三
年(1718)に、有名な町奉行大岡越前守忠相が江戸の各町に命じて消防組織を作らせ
ました。これが、「町火消し」と言われるものです。
 これら「大名火消し」「定火消し」「町火消し」の3組織が、江戸の消防組織でし
た。
 町火消しは、発音しにくい言葉や縁起の悪い言葉「へ・ひ・ら・ん」を「百・千・
萬・本」に代えて48組揃えました。48組は大川(隅田川)の西側を担当したので、
大川の東側にある本所や深川他の地域を担当する組を別に16組作りました。これら
の他に、吉原にも独立した消防組織がありました。
 町火消しの人達は、普段、町内の建築、土木、道路補修、河川の清掃など主に鳶作
業や土木作業に携わり、建設主、地主、大店の主人達から金銭を得て生計を保ちまし
た。いざ火災というときには、皆が消火に当りました。
 各組の長を「組頭(くみがしら)」と言います。ここから、建築、土木に携わる人
達をまとめている人を「頭(かしら)」と呼ぶようになりました。落語に登場する頭
(かしら)はこの人達のことです。頭の配下に居る人々を江戸では「仕事師(しごと
し)」と言いました。
 先に述べました定火消しは、幕府直轄の組織です。旗本は勿論、与力は武士です。
同心は最下級の武士になります。同心の配下に居る中間(がえん)は武士(士族)で
はありません。武士に雇われた雇用人に過ぎません。ところが、がえん達は幕府直轄
の組織に所属しているということから、特別の意識を持っていました。
 がえんは鳶作業や土木作業には従事しません。特別意識を持つ故に一般の町人を困
らせる行為が数多く見られ、江戸の町人からは嫌われる存在でありました。
 がえんは、自分達の存在を認めさせるためにでしょうか、真夏も寒中も短い法被と
褌姿で過ごしていたということです。火事場でも裸同然のその姿を押し通したといわ
れ、それを賞賛する人も居ますが、筆者はそのようには捉えていません。
 火炎の熱量は大変なものであり、燃え盛る炎は想像を絶する輻射熱を出しています。
武士であれ町火消しであれ、火掛かりを務める者は刺し子と言われる江戸の耐熱服を
身に付けます。町火消しの纏(まとい)持ちは、火炎と火の粉と輻射熱に晒されます
から、仲間の者が刺し子の上から絶えず手桶で水を掛け続けました。それでも火傷と
脱水症状で犠牲者が出たのです。
 筆者は、本当にがえん達が火事場で法被姿を押し通したのであれば、定火消しが公
的な組織であったことから、がえん達は燃え盛る火炎の直ぐ近くには近付かなくて済
んだのだろうと推察します。燃えていない家屋を壊す破壊消防や雑踏の整理、火事場
泥棒の監視などを担当していたのではないかと考えています。
 がえんは江戸中に千人以上いたといわれます。普段から髷を格好良くきちんと結い、
若くて体格の優れたものでないと採用されなかったと言われますし、不男ではがえん
になれなかったとも言われています。江戸の人口が多かったとは言え、この条件に叶
う人間がそう簡単に集まるものではありません。条件に見合うならアウトロ−世界の
者も雇われたのです。がえんが人々から嫌われた理由はその点にもありました。
 落語[火事息子]の若旦那は、商家の生まれでありながら子供の頃からそんながえ
んに憧れていたのでした。[火事息子]に注目してみましょう。
 大旦那は、火事の際に飛んで来て番頭さんを助けてくれた若者を、勘当したとは言
え我息子でありながら他人行儀の口振りと態度を取り続けます。がえん姿の元息子の
若旦那も、実の父親に対して四角張った態度を取ります。これは、久し振りに対面し
た父と息子が互いに照れているのではありません。勘当した親と勘当された息子は、
最早親でもなく子でもない赤の他人ですから、当然の態度なのでした。
 親が子に「出て行けッ」と叱り、息子が「お天道様と米の飯はついて廻ります。「
ハイ、さようなら」と家を出て行くことを勘当、と思っている人が少なくないようで
すが、勘当とはそんな生易しいことを言うのではありません。
 世間に嫌われている臥煙になるような息子に、資産と従業員一族(従業員には家族
も居ます)を譲るわけにはいきません。そんな息子では、商売仲間(株仲間)から相
続の同意を得ることが出来ません。仲間の賛同がないと、幕府の営業許可が下りませ
ん。従業員の目も世間の目も親族も、相続を許してはくれません。万一、息子が罪と
なる不祥事を起こすと、見世は取り潰され財産は没収されますそれが、江戸の連帯責
任制度でした。親としての愛情は当然ありますが、資産と従業員の保護とを考えると、
息子との縁を断って他人になることが、大店であればあるほど求められたのです。
 この決断は親一人では出来ません。親戚一同と株仲間の代表も加わった席で決定さ
れます。勘当の届けは町役人(ちょうやくにん:町人の代表)を通じて幕府に達しま
す。この時点で息子は人別長(にんべつちょう:江戸の戸籍)から抹消され、無宿人
(むしゅくにん)となります。親と子は赤の他人となりました。この後は、息子の不
祥事で親が責められることは一切ありません。
 これが「久離(きゅうり)切っての勘当」と言われる、本当の勘当です。勘当とは、
無宿人を一人生み出す行為なのです。
 落語[唐茄子屋(そうなすや)]の若旦那は、偶然、吾妻橋で叔父さんに拾われて
唐茄子売りをさせられ、遂には大旦那から勘当を許されますが、この勘当は言葉だけ
の勘当で、人別帖から外される本当の勘当ではありません。
 この[火事息子]の親子は本当の勘当でしたから、会話も態度も他人行儀にならざ
るを得ないのです。そうは言うものの、親子の情愛は消え去るものではありません。
新しい着物から金のたっぷり入った財布から、紋付きの羽織と袴(これを裃と言いま
す)まで捨て与えています。
 元の親は、無宿人となった元の息子に手渡しで物を与えることが憚られたのです。
それが、当時の身分制度では正しい行為なのでした。物貰い(乞食:こじき)に銭や
食べ物や着る物を与えるときには、手から手へは渡さず器(もっそう)に入れて渡す
のです。ですから、乞食さんは必ず器を持っているのです。別に、[大仏餅]の乞食
さんだけが器を持っていたのではありません。
 さて、火事の最中、番頭さんが蔵の目塗り作業に四苦八苦します。
 目塗り(めぬり)
     蔵の扉や窓の隙間から火の粉や熱風が入って、蔵の中のものが燃えること
    のないように、隙間に左官用の土を塗り込む行為のことです。
     隙間に土を押し込むだけですから、素人でも何とか出来ます。
 目土(めづち)
     目塗り用に普段から用意してある土のことです。通常は蔵の入り口前の床
    下に穴を掘り、その中に土を入れて置きました。
     第三回"師走の巻"で紹介した[穴蔵]とは全く違います。
     穴は土を入れるだけですから、穴蔵のように大きくも深くもありません。
    穴を掘るのではなく、樽や木箱に土を入れて蔵の入り口付近に用意している
    例もあります。
     土は大きな握り飯のような形で保存します。
     土をそのまま保存しますと、やがてアスファルトの様にカラカラに固まり
    ます。いくら水を撒いても簡単には柔らかくなりません。球状の土は、砕き
    ながら水を加えると簡単に柔らかな泥になります。
     噺家さんの中には、水の代わりに小便を使う人がいますが、一人や二人の
    小便では硬く乾燥した土は柔らかくはなりません。もっと多くの水が必要で
    す。
     小便で笑いを取る必要のない場面ですし、噺が嘘になるし、小便で土を柔
    らかくする演出は止めて欲しいと思います。
     落語を大切にしている筆者は、折角良く出来ている噺を汚い噺にして欲し
    くはないのです。


[火事息子]は、親子の切なる情愛あふれる筋立てといい、噺のデイテ−ルといい、
江戸風俗史の資料としても嘘のない、とてもよく出来た噺です。
                      では、また来月お目に掛かります。

2003・1・14 UP








第四回 睦月の巻[富籤の噺]

                           筆柿しめす  落 柿 庵


 おめでとうございます。正月でございます。
正月とは、睦月、元月、初月、初春など一月を表わす言葉の中の一つでございます。
 落語には、おめでたい正月の噺よりも深刻な暮の噺の方に傑作が多いようですが、
今回は、暮のどたばたを乗り越えて優雅な正月を迎えたおめでたい噺に目を向けまし
ょう。
 暮の二十八日になるというのに米も味噌も醤油も切れて、切れていない物は包丁だ
けという八五郎さんが、梯子の上に鶴がとまっている夢を見て、母親の形見という内
儀さんの半纏を引っぺがし質屋を拝み倒してようよう一分の金を拵え、買い求めた富
くじが千両に当り、考えもしなかった正月を迎えたという[御慶]です。
 親の形見ですから母娘二代が着古した半纏が、一両の四分の一になる一分もの価値
がある筈がありません。質屋が本当に一分もの金を貸したのでしょうか。
 全くない訳ではありません。当今の質屋さんは、利息を取って金を貸すよりも不用
品を買い取る古物商になっていますが、当時の質屋さんは全く異なっていました。当
時は、質物を流されるよりも、きちんと利息を払って質物を請け出して貰う方がずっ
と利益が出たのです。
 長屋の住人である庶民が鍋や釜を質入れしたと言いますが、質屋さんは年中利用し
てくれる町内の顔見知りが質物を流さないことを知っていますから、二束三文の価値
しかない質物でも銭を貸してくれました。
 借りた方も町内に住む者として面子がありますし、また無理を願うこともあります
ので、どんなに価値のない物でも決して流すようなことはしませんでした。
 ですから、古い半纏で一分もの金を貸してくれたのです。これも、日頃の質屋通い
のお陰(?)でした。
 大金を手にした八五郎さんが、「市谷の甘酒屋」で紋付き羽織袴の裃に肩衣まで揃
えます。
「市谷の甘酒屋」は、実在した大きな古着屋でした。庶民が買いに行く古着屋は、古
着屋ばかりが何十軒も集った露天商売でしたが、甘酒屋は大きな構えの見世でした。
 武士の出入りが多かったと言われますから、良い物を取り揃えた大店だったのです。
 新しい着物は呉服屋で反物を買い、仕立て屋で仕立てて貰わないとなりませんから、
いくら大金があっても正月には間に合いません。リサイクル都市江戸では、武士も町
人も、裕福な者も貧乏人も、夫々の都合にあわせて古着屋を利用したのです。古着は、
決して貧乏人だけのものではありません。
 江戸には多くの寺社がありました。
 江戸の初期に徳川家、大名家、大きな旗本家がスポンサ−となって建立し維持して
きましたが、江戸も中期になるとスポンサ−に経済的な余裕がなくなってきました。
 各寺社には自前で維持費を捻出する必要が求められました。
 奉加帳、本尊開帳、縁日、市、相撲興行、見世物興行など資金集めにはいろいろあ
りましたが、その一つに富籤興行がありました。
 富札の売上から必要額を取り除き、残りを賞として籤で当選者に分配するという富
籤興行が一番人気があり、金も一番集りました。どこの寺社でも富籤興行を希望しま
したので、許可を与える寺社奉行が困ったそうです。
 宝永期(1704−11)に始まった江戸の富くじは幾度もの禁止令を経ながら、多くの
 落語の舞台となっている文化期(1804−18)にはほぼ毎日江戸のどこかで富籤興行
が行われていました。中でも、谷中感応寺、目黒不動、湯島天神は江戸の三富と言わ
れ、賞金も大きかったのです。
 落語では[富久]も[宿屋の富]も[御慶]も富の最高額を千両としていますが、
全ての富が千両富だったわけではありません。むしろ千両富はまれで、もっと小額の
富が普通でした。
 大きな富興行では当たり籤が百本もありました。一番最初、十番目・・・・九十番
目などに大きな額が当り、その間は一分、二分、一両、三両など小額が当ったそうで
す。その日の最後、百番目に突かれる籤がその日の最高額で、それを「突き止め」と
言いました。よく、「つきどみ(突き富)」と発音する人がいますが、それは間違い
です。
 富くじの札を富札(とみふだ)と言います。
 初期の富札は、富の興行場でしか売りませんでした。木の札に買った人の住所と名
を書き、大きな木箱に入れます。富を買った人には、控えとして紙の札を渡しました。
 当たり籤には住所と名が書いてありますから、当初は当選金を興行側が賑やかに届
けてくれたそうです。
 富が盛んになると、一々届けるようなことはしなくなりました。受け取る人の中に
は、町内の頭を頼んで賑やかに受け取りに行った人もいたようです。
 富興行が盛んになると、松竹梅、天地人、鶴亀などの組に番号を書いた紙の札が富
札となりました。同じ番号の木札が抽選用の大きな箱に入れられました。偽札防止の
ため、富興行毎に札の大きさを変える、文字を変える、墨の色を変える、印形を変え
るなど工夫したそうです。
 富札はそれぞれの興行場所で発売しましたが、札売りを商売とする人に卸値で発売
してもいました。[御慶]では富札を興行場所で直接買っています。[富久]では札
売り人から、[宿屋の富]では宿の亭主から求めています。
 札売り人は、口銭を稼いでいたのです。文化期に、富札一枚を銀十二匁で仕入れ金
一分で売ったという記録がありますから、およそ三百文の利益があったということに
なります。売れ残りの富札は返却できませんから、売れ残りは札売り人の負担になり
ます。
[宿屋の富]で貧乏宿の亭主が貧乏宿泊人に富札を売り付けたのは、亭主の側に経済
的な必然があったのです。[富久]でも[宿屋の富]でもあっさりと富札を売ってい
ますが、もっと必死になって売りつける演出があっても一向に差し支えありません。
 通常の富札は一枚が一分でしたが、一枚が一朱や二朱という安い富札もありました。
売値が安い富は当選額も低いものでしたが、富くじが盛んになった要因になりました。
 富くじが盛んになった陰で、富くじの当り番号を印刷して四文で売る商売がありま
した。富くじの当り番号を対象にして小額の銭を賭ける商売もあったといいます。
 さて、[御慶]の八五郎さんは千両に当ったのですが手にしたのは八百両でした。
当日に受け取ろうと後日に受け取ろうと、どこの富興行でも、何のかのと理屈をつけ
て二割程度は差し引かれるのが常だったようです。
 ところで、皆さんは暮のジャンボ宝くじで504人の長者に入りましたか?
 筆者は・・・・・・。
                       では、また来月お目に掛かります。
2003・1・14 UP








第三回 師走の巻[穴蔵の噺]
                            筆柿しめす 落 柿 庵


 物に動じない師匠でも走り回るという12月になりました。師走の他に極月とも言
いますし、厳月、氷月、雪見月など寒さを表わす言葉の他に、春待月などという表現
もあります。
 長屋住まいの落語界の住人にとっては、溜めた支払いに追われる暮節であり忙月で
ありました。
 毎日のツケは晦日に、1年の前期分の未払いは盆に、後期分の未払いは大晦日に決
着をつけるというのが、江戸に住む人々の暗黙の了解事項でした。
 この前提があるので、売り手の方も安心して庶民相手に大福帳(ツケ)取引に応じ
ていたのです。
 町内の見世(商店)から現金なしで品物を手に入れられるこの制度は、長屋住まい
の庶民にとってはまことに有り難いものでした。
 大晦日に借金を取り立てに来る方は、集めた金で自分の支払いを済ませなくてはな
りませんから真剣です。「無いものは払えない」と開き直っている者よりも、取り立
てている側の方に内情が厳しい例だってあったと思います。
 好きなものに心を奪われる[掛取り万歳]の借金取り達は、喧嘩好きな魚屋の金さ
んを除くと、余裕のある人達です。そのような借金取りに責められた熊さんは幸せで
した。
[にらみ返し]や[言い訳座頭]で他人の借金返済不能を代弁している人は、自分の
借金返済がまだ残っているのですから大変です。
 金を貸してくれる人はいず、借金返済不能を自分で言い訳も出来ず、内儀さんから
小言を喰らった挙句に家を追い出された男にとって大晦日は辛いものでした。
 自殺する勇気はなく、[死神]にも会えず、ふらふらと街なかをさ迷い歩くしか手
立てのない、いささか頼りないのですが決して悪人ではない男、それが[穴泥]の主
人公です。
 木枯らしに煽られている枝折り戸に誘われて、つい庭から誰もいない座敷に上がり、
あまりの空腹に耐え兼ねて残り物の酒や食べ物に手を出してしまいました。
  ひもじさと寒さと恋を比ぶれば 恥ずかしながらひもじさが先
 だったのです。
 空腹に久し振りの酒、彼は酔いました。でも、泥棒心はいささかもありません。穴
蔵に落ちたばかりに、泥棒扱いを受けたのです。
 さて、穴蔵とは何でしょうか。
 蔵の戸口前にある目土(目塗り用の土)を入れた穴と間違う人がいますが、それと
は全く違います。火災の際に、大切な物を投げ入れるために縁の下に掘られた穴のこ
とです。
 大きさは一定していませんが、火災で燃えることを嫌う穴ですから深く掘り下げま
した。穴の四周は、土の崩れを防ぐ為に板で囲います。底は土のままですが、地下水
が出て、地下水の出ない所ではわざと水を入れるので、少し水が溜まっています。
 穴は、廊下や台所など板敷き床の下に作られました。火災になると、取り外しの出
来る床板を外して穴の中に大切な物を放り込みました。下に水が溜っていた方が壊れ
ないのです。家が焼けても穴の中が酸素欠乏状態になることと、水による湿潤状態に
なることとで、品物の延焼が免れたのです。
 少なくとも、底にあるものは燃え残りました。穴蔵を作る家はそれなりの資産家で
すから、避難する時に大切だけれども重たくて持ち出せないものの筆頭は貨幣でした。
 一番下に金箱、銭箱を置きその上に茶碗などの焼き物を並べて隠すのでした。瀬戸
物屋、金物屋などは売り物を入れます。
 江戸の消防は破壊消防ですから、燃えないまでも家を壊されることがあります。こ
の時も、財産の一部は無事に残ることになります。
 筆者が見た穴蔵は台所の床下に作られていて、床板を開けると更に穴蔵のフタが作
られていました。この場合は床板がずれても穴蔵に落ちることはありませんが、[穴
泥]の場合は床板がずれていた上に酔っていたので、そのまま穴蔵に落ちたのでした。
酔っていなければ、片足を踏み外したくらいで済んでいたのかも知れません。
 筆者の見た穴蔵は深さが一間位ありました。落ちると腰をしたたか打ったでしょう
し、上がろうとしても周りの壁が湿気でヌルヌルしていて、とても一人では這い上が
ることが出来ません。
 落ちた男はともかく、引き上げろといわれた頭のところの若い衆も一人では困った
はずです。
[穴泥]という噺は、ことほどさようにリアルに出来ている噺なのです。


                      ではまた、来月お目に掛かります。
2003・1・11 UP








第二回 霜月の巻[忠臣蔵の噺]

                           筆柿しめす  落 柿 庵


 霜月は11月です。
 江戸の人に「11月に何を連想しますか」聞くと、「芝居」と言う答えが返ってき
たことでしょう。芝居好きにとって、11月は特別の月だったからです。
 11月になると<顔見世大歌舞伎>と大きな看板が出ます。
 江戸の役者は、座元と今日でいうところの年間契約を結んでいました。
 10月に入ると各座頭が集って、主な役者の交換をしました。ウェ−バ−制度です。
 交換が成立すると、新しい役者の組み合わせと出し物を発表し稽古に励みました。
 そして、11月1日を初日として、新メンバ−で心新たに芝居を演じました。新し
 い顔ぶれが揃うので<顔見世>と言うのです。
 芝居の世界は、10月晦日が大晦日、11月1日が元旦になります。
 芝居が盛んだった江戸は、三座(中村座、森田座、市村座)の他に小さな芝居座が
幾つもありました。今日の大衆芝居劇団のようなものです。人々は、小さな芝居座の
ことを小歌舞伎と言い、三座のことを<大歌舞伎(おおかぶき)>と言いました。
 <顔見世大歌舞伎>とは、新しい役者の組み合わせによる三座の歌舞伎芝居、とい
う意味でした。
 江戸の人は、老若男女を問わず芝居が大好きでした。芝居が最大で唯一無二の娯楽
だったからです。
 役者は国民的な大スタ−でしたし、ファッションリ−ダ−でもありました。役者の
名を冠した化粧品はよく売れました。
 江戸の人達は役者に詳しいだけではなく大変な見巧者で、名の通った芝居は筋立て
から見得から科白まで知っているのでした。
 ですから、大見世の大旦那の長寿を、町内の者が芝居で祝ったのです。芝居に精通
し、一度は舞台に立ちたいと願う素人役者は沢山いたのです。舞台装置、鬘や衣装、
囃し方などの費用を負担してくれるスポンサ−さえ付けば、役者には困りませんでし
た。
 祝って貰う大旦那は、喜んでスポンサ−になりました。また、このような時に金を
惜しまないのが、江戸の金持ちでした。
 このような背景から、芝居を題材にした落語がたくさん作られたのです。
[一分茶番][田舎芝居][蛙茶番][権助芝居][五段目][九段目]など素人芝
居の失敗談は、本当にあった話のように思われます。
[浮かれ三番][掛取り万歳][二段目][四段目][七段目]など、夢中になり役
者気取りから抜けられない芝居好きが、本当に見られたのではないかと思います。
 それらの他にも、[髪結い新三][質屋蔵][清正公酒屋][橋弁慶][芝居の穴]
や圓朝もの数々、八代目林家正蔵系の噺数々など、噺家さんの芝居演技力を楽しむ噺
も生まれました。
 昔から、「景気が良くても悪くても忠臣蔵」「出し物に困ると忠臣蔵」と言われる
ように、忠臣蔵は人気の高い芝居でした。
 その影響があってか、落語にも忠臣蔵に関わる噺が数多くあります。
 筆者が知っているものだけでも記してみましょう。


    芝居      落語
   大 序 : [田舎芝居]
            大序から五段目までの素人芝居が入ります。
            下げは[五段目]と同じです。
   二段目 : [二段目(芝居風呂)]
            風呂で忠臣蔵の芝居に夢中になり喧嘩します。帰る
            客が着物を探していると、番頭が「二段目じゃぁい」。
            六代目圓生さんのは、忠臣蔵ではありませんでした。
   四段目 : [四段目]
            芝居好きな質屋の小僧さんの失敗物語です。
         [淀五郎(中村秀鶴)]
            判官腹切りの場に由良之助がいない。さて。
   五段目 : [五段目(吐血)]
            鉄砲が鳴らず定九郎役は死ぬに死ねない。さて。
         [中村仲蔵]
            もし雨が降らなかったら、蕎麦屋が無かったら、
            浪人が現れなかったら、今の定九郎はなかった?
   七段目 : [七段目]
            芝居好きな困った若旦那と同様の小僧さんの物語。
   九段目 : [九段目(素人芝居・加古川本蔵)]
            代役は慎重に選ばなくてはならないという見本です。
  十一段目 : [角兵衛(山岡角兵衛・角兵衛の女房・志士の討入り)]
            芝居ではなく、大石蔵之助の忠臣蔵です。
         [赤垣源蔵]
            講釈の忠臣蔵を落語にしたものです。


 今年は討入りから数えて300年とか。
 浪士が吉良上野介の首級を討ち取った日付は、正しくは元禄十五年十二月十五日で、
その日を西暦に直すと1703年1月31日だったという史実を、あなたは知ってい
ましたか?
 それはまた、別の月にご説明します。
 さて、三遊亭圓窓、鈴々亭馬桜、金原亭馬生他の師匠連による「寄席手本忠臣蔵(
忠臣蔵を聴く)」公演が国立演芸場上席(12月1日〜10日)で行われます。
 忠臣蔵にちなんだ出し物が並ぶそうです。先ずは、見てからのお楽しみといたしま
しょう。
                       では、また来月お目に掛かります。
2002・11・6 UP





ご 挨 拶
 圓窓師匠から電気通信機(電話とやら)にて「電脳器(パソコンとやら)の家庭欄
(HPとやら)に何か書かれたし」との御達しあり。
 お若き方々のお役に立てばと、当月より一年の間、落語と江戸時代に関わることの
数々を、月に一話ずつ書き綴ることを師と約束仕り候。
 さすれば、兄姉諸氏から御批判、御注意、御叱責など戴けましたなら幸甚に存じ候。
 我苦屋に柿の樹有り。ヘタ虫とやらが取り付きよく柿の実が落ちるなり。また、主
が役にも立たぬ落書きを綴ることあり。故に我住居を落柿(らくし、らくがき)庵と
名づく。筆名にもそれを用いることとす。
 筆者実の名、齢、性別、経歴の義は、詮索ご容赦下さるべく願い上げ候。
                  壬午 神無月吉日 落柿庵 敬白(軽薄?)


第一回 神無月の巻[大山詣り]

                           筆柿しめす  落 柿 庵


 十月は神様が残らず出雲の国に集るので神無月といい、出雲の国のみ神有月という
そうです。
 日本には神様が八百万も居られる様で、貧乏神やら痔の神やら我々の身の周りは神
様だらけのようです。
 落語(噺)には”[御神酒徳利]=稲荷大明神””[黄金の大黒]=大黒天””[
お払い(大神宮)]=磯部大神宮””[死神]=死神””[福の神]=恵比寿天、大
黒天”など神様が直に現れるものが少なくありません。
 神様が直接口を聞くことはないけれども、神様やお社が噺の背景になっている噺も
”[氏子中]=氏神(神田明神)””[庚神待ち(宿屋の仇討ち)]=庚神(青面金
剛)””[鹿政談]=春日大明神””[狸賽]=菅原天神””[佃祭り]=住吉大社
””[富久]=伊勢神宮””[一目上がり]=七福神””[三井の大黒]=大黒天”
などあります。
 江戸の人達には山岳信仰が盛んでしたので、”[富士詣り]=浅間神社””[大山
詣り](百人坊主)=石尊大権現”などの噺も生まれました。
 今回は、落語[大山詣り]に注目してみましょう。


大山の概要
  神奈川県丹沢山塊の東南端にある三角形の山で、開山は6月です。富士山よりも
 ずっと低いこと、富士山よりも近いので日数も費用も少なくて済むこと、関所を通
 らずに行かれるので旅手形が不要なことが大山詣りを盛んにした要因でした。
(こう)
  江戸の人は信仰に事寄せて、団体旅行をするのが好きでした。一緒に旅をする仲
 間を集め、目的別に「大山講」「富士講」「成田講」「伊勢講」などと名付けました。
  山岳信仰では女性の登山が禁止されている、女性の旅には制約が多くある、女性
 は男性よりも足弱である、などの理由から女性が講に加わることは極端に少なかっ
 たようでした。
講元(こうもと)
  講の中心人物のことで、講では参加した皆が旅の費用を積み立てていましたので、
 積立金を預けられる人望と費用不足を補える経済力とを兼ね備えた人が、これに当
 たりました。
先達(せんだつ)
  旅慣れ、体力があり、現地や道々の事情に詳しく、皆の信用があり、講をまとめ
 る指導力のある人がこれに当たりました。
御師(おし)
  現地の宿泊や案内などをまとめる地元の人。御師の人とも言われました。
  暮れになると神様の御札や暦を持って江戸まで出て来、次回の予約案内を兼ねた
 挨拶回りをしていました。遠く伊勢からも、大勢の御師が江戸に出て来ました。
道順
  江戸−−−赤坂−−−渋谷−−−三軒茶屋−−(厚木街道:現246号線)−−
(大山街道)−−−大山−−−平塚−−−藤沢−−−江ノ島−−−(鎌倉から金沢八景
 に廻ることもある)−−−−神奈川−−−川崎−−−品川−−−江戸。
  帰りにも往きの道を辿ることがありましたが、多くは観光を兼ねた旅でしたから
 東海道に出て帰る道筋が一般でした。厚木街道の往復では、後述する精進落しがで
 きないこともその要因でした。
垢離(こり)水垢離(みずごり)
  神仏祈願のため、心身の穢れを取り去り清浄にすることです。呪文や経を唱えな
 がら海や川や井戸の水を浴びて行うことを水垢離と言います。両国橋の橋際に公認
 の水垢離場がありました。
  そこまで行かれない人は、井戸端で水を浴びて済ませました。旅に行くときばか
 りでなく、流行り病の平癒祈願や敵討ちなど願い事成就の水垢離もありました。イ
 ンドの人がガンジス河で水浴びをすることと、思想は同じです。
  水垢離は白装束に身を固めるのが一般的でしたので、白装束の集団が多数江戸の
 町をうろつくことは好ましくないと、幕府から規制されたこともありました。こと
 ほど左様に一般化された行いでした。
精進落し
  旅立ちの数日前から水垢離を取り、酒を飲まず、遊里遊びはおろか連れ合いとも
 仲良くせず、お山(お参り)が済むまでは超真面目人間を続けてきたのですから、
 緊張からの開放と旅の疲れも手伝って、精進落しの夜に乱れる者が出るのは常のこ
 とでした。
  男達の中には信仰はどうでもよく、この夜のために講に加わった者もいた筈です。
  筆者の若い頃(30、40年前)の社内旅行には、まだそのような雰囲気が残っ
 ていました。
帰り路
  大山からの帰りに男の常道である精進落しが出来る所は、藤沢宿か船で渡った江
 ノ島でした。江ノ島は名所であると共に歓楽地でもありました。ここから東海道を
 進まずに、鎌倉を見物したり金沢八景に廻ることもありました。
  朝、江ノ島を出てからそれらを見物して廻るには、どこかに一泊しないと江戸に
 帰ることが出来ません。東海道膝栗毛で有名な弥次さん喜多さんの二人は、朝、神
 田を出立しておよそ40Km先の戸塚宿に泊まっています。江ノ島は戸塚からさら
 に10Kmほど遠くなりますから、昼飯を食べたり茶屋で休む時間も必要なのでそ
 の日の内に江戸に帰るには、男の足でも頑張らないといけません。
  熊さんは駕籠を飛ばして急ぎましたからまだ陽の残っている内に長屋に戻りまし
 たが、講の一行は陽が落ちてから長屋に戻って来ました。一行は、日の出間近の朝
 早くに宿を出たことでしょう。
  駕籠を使った熊さんでも、昼近くまで寝ていたのでは陽のある内に長屋に帰るこ
 とはとても無理です。女中さんが布団を片付けているときに熊さんに気付いたとい
 うことは、一行が旅立ってからそれほど経っていない時刻だったに違いありません。
  落語を演じる噺家さんは、熊さんを昼近くまで寝坊させないようにお願いします。
百万遍(ひゃくまんべん)
  大勢で輪を作り、中に導師が入って南無阿弥陀仏を唱えながら大きな数珠を廻す
 行為をいいます。
  チベット仏教では、経を唱えながら経文の書いてある筒をくるくる廻して寺堂を
 巡りますが、同じ意義があるのだと思います。
(まげ)を切る
  江戸の人は、武士も町人も、男も女も髷(髪)を大切にしました。
  武士は、髷が結えなくなると引退せざるを得ませんでした。
  髪の細いあるいは薄くなった女性はかもじを加えて髷を結いました。
  町人の男も、吉原で不始末をして髷を短くされたりすると、かもじで髷を作り入
 れ髪(いれがみ)ということをしました。坊主になるということは、男を捨てるとい
 うことでもありました。現代にも「坊主になって詫びる」という行為と言葉が残っ
 ています。
  喧嘩で暴力をふるった熊さんは悪いのですが、原因が湯の中の屁ですから丸坊主
 にしなくても良かったのではなかったかと、筆者は熊さんにいささかの同情を禁じ
 得ません。  
では、また来月お目に掛かります。
2002・10・12 UP