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 窓門会文庫

落語と狂言の交わり江戸落語風俗抄落語の中の古文問答カル日記噺のような話落語の中の江戸生活学まるがお通信



窓門会会員 作家 弥 助

その20 補足します

 その一つ
「ギリシア」とずっと書いていますが、「ギリシャ」とお書きになる方もいます。
 日本語では「いあ」と発音するのは難しいみたいで、「いゃ」もしくは「いや」
という発音になります。
 こんな例は、他にもあります。
「ロシア」→「ロシヤ」
「ブルガリア」→「ブルガリヤ」
「イアリング」→「イヤリング」
「ニューイアー」→「ニューイヤー」
 などなど。
 どの国の言葉も、発音しにくい音、というのがあります。
 古い日本語では「ぱぴぷぺぽ」で始まる言葉というのはありませんでした。
 ギリシア語では「やゆよ」は、厳密にはありません。Yという文字がないのです。
 また、ギリシア語では「おう」という発音もありません。OUという綴りは「うー
」と読みます。
 ドイツ語では「えう」という発音がありません。EUという綴りは「おい」と読み
ます。


 その二つ
 原語に忠実に書くとすると「ソクラテス」→「ソークラテース」。「プラトン」→
「プラットーン」となりますが、慣用に従いました。
「アリストパネス」「クセノポン」は、「アリストファネス」「クセノフォン」と書
いてある場合もありますがphという綴りを「ファ フィ フ フェ フォ」と英語
風に読むよりも、「パ ピ プ ぺ ポ」と読むほうがギリシア語に近いので、「ア
リストパネス」「クセノポン」としました。
                        本当に、もう、つづきません。
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その19 トロイの話

 落語とギリシア教育論の接点ということで、少しだけお話して、私の講義を終える
ことにします。
 ギリシアの教育論で、話し言葉が重視されていたことは、これまでの説明でなんと
なくおわかりいただけたのではないかと思います。
 神話を語る、ホメロス語りから始まり、今回の講義では省略しましたが、今日でも
たびたび再演される、悲劇を中心とした演劇、また、ソフィストの演説、ソクラテス
の問答法、と、古代ギリシアの教育で中心となっているのは、話し言葉です。
 当時、本がなかったわけではありません。しかし、紙は大変高価でしたし、印刷術
が発展していませんでしたので、本は貴重なものでした。
 ですから、本というのは、教師あるいは一家の長が、声に出して読むものであり、
生徒や子供たちは、それを聞くことによって学んだのでした。
 余談ですが、当時、本を出版するときは、字の書ける奴隷をたくさん集めてきて、
元の本をそのまま書き写させたのです。
 活版印刷が登場するまでは、本はすべて手書きでした。ですから、美しい文字を書
いたり、表紙の装丁をしたりするために、さまざまな字体が生まれ、レタリングとい
うものが発達したのです。
 それはともかくとして、音としての言葉、つまり話し言葉を理解するということが、
生徒にとってみれば、最低限の条件でした。
 こうして、小さいうちから、自然と「聞く力」が鍛え上げられていったのだと思い
ます。
 今の日本では、人の話を聞くのが苦手、あるいは、人の話を聞くのが嫌い、という
人が、調査したわけではありませんけれども、相当多いように思います。
 こういう話題になりますと、よく、成人式が引き合いに出されます。
 成人式が、そもそも祝辞を聞かせるだけの構成になっているのか、旧態依然の方式
でやっていることに問題もあるのではないか、と思える部分もあって、すべてが聞く
力の問題とも思えないのですが、それにしても、ある程度まとまった時間、話を聞く
というのは、とりわけ若者にとって苦手なことは事実です。
 大学の教室でも、うちの大学は1時間が75分で、他大学の90分よりは短いので
すけれども、講義を最初から最後まで集中して聞くだけの、聞く力というのは、弱く
なってきているように思います。
聞く力は、やはり、小さいうちから身につけなくてはなりません。
 落語を授業に取り入れるということは、ギリシア教育論の面から考えても、重要な
ことだと思います。
 私が生徒さんたちに身につけてほしいと思うのは「集中力の持続」と「想像力」で
す。
 落語は、数秒で終わる小咄もありますけれど、ある程度の時間、集中して聞いてい
なければ、落ちの意味が理解できません。
 さまざまな噺・ネタを繰り返し聞くことによって、人の話を集中して聞く力が、楽
しみながら身についてくることと思います。
 また、想像力ですが、いうまでもなく、落語は言葉の芸で、耳で楽しむものです。
 視覚的要素の強い話もありますけれど、耳で聞いて、今ここにないものを想像する
ことは、子供のうちから訓練しておくべき、重要なことです。
 もちろん、しぐさや表情といった視覚を通しての笑い、例えば[睨み返し][蒟蒻
問答][強情灸]などのような噺もありますが、教科書に取り上げられた[ぞろぞろ]
は話し言葉を聞いて落語を味わうことができます。
 小学生が落ちに至るまで、言葉だけの世界から何を想像できるか。教育の上での大
きな課題を含んでいます。
 映画や芝居を見てではなく、噺を聞いて面白さを味わうのは、小学生には難しいこ
とかもしれません。
 でも、何回か聞いていくうちに、おじいさんやおばあさんの姿が、自分なりに想像
できることでしょう。
 言葉から何かを想像する力、これを持っていない子供たちに、難しい内容を教える
ということは、なかなかできることではありません。
 中学に入ったら、想像力のある子とない子の差は、はっきり出てきます。
 たとえば理科にしても、原子だの分子だのというものを実際に見たことのある人は、
世界に誰もおりません。
 模型を使ったりもしましょうが、言葉を聞いてイメージできるかどうかで、理解力
が変ってきます。
 単なる知識の詰め込みではなく、想像力を豊かにすることこそが、小学生にとって
重要なことだと私は考えております。
 創造(クリエイト)は想像(イメージ)なくして、できるものではありません。落
語を通して、想像力豊かな子供たちが増えてくれば、創造力も自然と磨かれることで
しょう。
 その過程で、子供たちが礼儀作法や言葉遣いなど、日本文化、と言って大げさなら、
生活の知恵を身につけることができれば、世の中はだいぶ変わるでしょうね。
 そういうわけで、4年生が落語を勉強する、というのは、とても大切なことです。
 小学校が笑楽校になるといいですね。(笑)
 聞き手である生徒さんの側だけでなく、話し手である教師の問題点もいろいろある
のですが、多くを語ると、天につばを吐いているようで、心苦しく思いますが(笑)、
1つだけあげるとすれば、教師は芸人としての要素を必要とする、と思います。
 これは何も、生徒に媚びを売ることではありません。しかし、聞かせるだけの話を
しているのかどうか、時間つぶしの話になっていないかどうか、語りのプロとしての
自覚を各先生方がもう一度、確認していただきたいと思っています。
 さてまあ、ずいぶんと長い話になってしまいましたが、今回はこのあたりで終わり
とします。
 長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
                               つづく????
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その18 プラトンは「教育の男女同権」を訴えていた 

 いよいよ、プラトンの話になります。
 プラトンの本というのは、独特の書き方になっております。
 というのも、普通の本のように、自分の考えをだらだらと書いているのではないの
です。対話篇と申しまして、あたかも戯曲のように、登場人物がお互いに議論をする、
という形で、自分の説を述べてまいります。
 プラトンの作品では、実在の通りかどうかはともかく、「ソクラテス」が主要な登
場人物として、さまざまな人と話をする、という展開になっています。
 これは、先に述べたようにソクラテスの問答法の影響です。プラトンは、ソクラテ
スの問答法を、教育的にさらに改良して、自分の思想を固めていきました。
教育には、二つの方向があります。
 一つは、教師が生徒に対して、教える内容を「注入する」あるいは「刷り込む」な
どと表現されますが、教師を中心とした教育です。
 この考え方によると、「生徒は何も知識を身に付けていない。だから、教師が生徒
に対して知識を教え込むことが教育だ」ということになります。先に挙げたソフィス
トたちの教育は、こうした考えによるものです。
 もう一つは、生徒を中心とした教育で、教師はあくまで補助者として生徒の能力を
引き出す役割に徹する、という教育です。
「生徒には、すでに素質がある。だから、その素質をいじくるのではなく、うまく引
き出してやるのが教師の役割だ」という考え方です。
 プラトンは、後者の立場から、問答法を使って生徒の素質を引き出すことこそ、教
育の役割だと考えています。
「学習とは、自らの心から想い起こすことに他ならない」と、プラトンは述べて、「
学習イコール想起」説というのを提案します。
 これが、実際に正しいものであるか、また、問答法が議論のためだけでなく、教育
に有効なものかを、子供に数学、特に図形の問題を教えることで実験しました。
 プラトンは数学を重視していました。アカデメイアという、プラトンが開いた大学
の門前には、「幾何学を学ばざるもの、この門入るべからず」と書いてあったという
のは有名です。
 数学というと、みなさまも中学校の頃、図形の証明問題でお悩みだったことでしょ
う。プラトンは知人の家で召使をしている子供を相手に、図形の証明とか作図を問答
法で解説しております。
 具体的な例を出しますと、数学の素養のない子供に「一辺の長さが1の正方形の2
倍の面積の正方形を作図せよ」という問題を与えます。
 まず、子供は一辺の長さが1の正方形を描きます。そして、一辺の長さを2倍にし
てみます。しかし、これだと、正方形の面積は4倍になってしまいます。
 そこで、プラトンと子供はいろいろ試行錯誤して、元の一辺の長さ1の正方形に対
角線を引くことを発見します。対角線の長さを一辺とする正方形を作ると、元の面積
の2倍の面積の正方形を作図することが出来ました。
 √2(ルート2)などという専門用語を知らなくても、子供の関心をうまく誘導す
ることで、作図は成功して問答法の実験は成功したのです。
 教育者としてのプラトンは、今でいう大学教授として指導にあたり、初等的な教育
を直接教えることはありませんでしたが、高等教育を受ける前の予備的な教育として、
次のようなものを挙げています。
 まず、数学です。代数学、平面幾何学、空間幾何学。次に、天文学。これは、今日
では物理学に近いものです。
 さらに、音楽をあげています。音楽の意義を説いているというのも、プラトンの教
育論の中で重要です。
 これらの学習にあたっては、プラトンは次のように述べています。少し引用します。
「子供たちを学習させながら育てるにあたって、けっして無理強いを加えることなく、
むしろ自由に遊ばせる形をとらなければならない。またそうしたほうが、それぞれの
子供の素質が何に向いているかを、よりよく見てとることができるだろう」(『国家』
)プラトンは、素質を引き出す教育を主眼とし、能力のあるものを選抜して、アカデ
メイアでさらに高等の教育を受けさせ、国家の指導者を養成しようとしていました。
 国家の指導者は、「哲学とか理念を備えた人でなくてはならない」というのがプラ
トンの最大の主張でした。
 プラトンの教育論は、広い範囲に亘っており、すべてを解説することはできません
が、もう一つだけ挙げておきます。
 それは、「女子に対する教育を男子と同じだけ行う」というものです。
 今では、「女子教育の重要性」などと言っても、的はずれになってしまいますが、
日本でも戦前は国立大学、当時の帝国大学は女人禁制でした。教育の男女同権という
のは、戦後になってようやく実現したのです。
 それを、紀元前4世紀にすでに唱えていたところが、プラトンのすごいところだと
思います。
 プラトンの教育論は、弟子のアリストテレスやアカデメイアの学者たちによって引
き継がれていきました。
 まだまだ、お話したいことはいろいろあるのですが、今回はこのあたりで一区切り
つけて、次に落語とギリシア教育論の関係を少しお話して、今回の講義をまとめるこ
とにします。
 難しい話が続きました。プラトンの話は特に難しかったようです。しかも、落ちが
考え付きません。(笑)
 毎回、落ちを入れようとしているのに、いらいらしています。
 これを落ち付かない(落ち着かない)とでも言うのでしょうね。(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その17 ギリシアには家庭科もあった 

 ソクラテスはいろいろなところに出かけて、いろいろな人と議論をするのを日課に
していました。
 ギリシアの若者たちは、体育の訓練を受けるために、また、オリンピックなどの競
技会に向けて、体育施設で毎日運動をしていたのですが、ソクラテスはそういうとこ
ろに出かけていって、若者たちを相手に話をしていました。
 のちに、裁判にかけられたときの罪状としては、「若者を堕落させるような教育を
した」ということになるのですが、話をしていたのは、若者だけではありません。政
治家、軍人、ライバルの教師であるソフィストたちなどなど、さまざまな人々と話し
をしました。
 庶民とも多く話をし、召使をしている子供に対しても、「君はギリシア語を話せる
よね」と確かめた上で話しかけております。
 話をすること、これが、ソクラテスの教育の原点です。しかもこれは、ソフィスト
たちのように、演説形式として、一方的に講義をするものではありませんでした。
 ソクラテスの教育術では、ソクラテスと話し相手という、一対一の間でさまざまな
ことを話し合うことによって、相手をより徳のある状態へと導いていくことがねらい
でした。
 これは、一般に「問答法」と呼ばれています。
 ソクラテスは、「知らないのに知ったかぶりをしている」のを何よりもいけないこ
とだと考え、「知らないことは、知らないと認めさせる」ことを、問答法の目的とし
ました。
「無知の知」などとよばれていますが、「知らないことを知らないと認める」のは、
とても困難なことです。
 ソクラテスは、たとえば、勇敢な軍人として有名な人に対して、「あなたは本当の
勇気というのを知っていますか」などと話しかけていくわけです。
 そして、相手が勇気について自覚していないということを、問答を通じて、さらけ
出してしまうのです。
 相手も、プライドがありますから、なかなか、「知らない」とは言えません。でも
最後には、プライドは見事に打ち壊されてしまいます。
 ソクラテスのねらいは、「知ったかぶり」をしている相手に無知を自覚させる、と
いうことにあったわけですが、このことは相手のプライドをひどく傷つける結果とな
り、ひいては、ソクラテスを死刑にするという裁判へと、自らを追いやってしまった
のでした。
 ここからは、あくまで私の考えですが、お互いが、「これは教育の一環なのだ」と、
自覚した上で問答法を行うのは、とても有益なことです。
 今日では、人数としては一対一ではありませんが、ディベートとかディスカッショ
ンといった、議論とか話し合いが授業に取り入れられることもあり、対話の重要性は
改めて見直されています。
 しかし、ソクラテスの場合、「これは教育のための議論なのだ」ということを、話
し相手に示すことなく、あたかも議論のための議論を振りかけていったような印象を、
話し相手に持たせてしまったのでした。
 しかも、話し相手のプライドを打ち壊すことを、対話の最大の目的としていたので
すから、自由な言論が尊ばれていたアテネだといっても、ソクラテスの問答法は、結
局、一般の人には受け入れられなかったのでした。
 しかし、問答法によって、教育論上、あるいはさらに、西洋の思想を見ていく上で、
重要な考え方が導き出されました。
 それは、「何かを知っているということは、そのことがらを言葉で充分に説明でき
ることだ」という考え方です。
「知っているのだけれど、言葉では説明できない」ということは、西洋では、「じつ
はわかっていない」とみなされます。
 日本では、言葉以外の部分、たとえば、表情とか仕草によって、何かを伝える、と
いうこともよくありますが、西洋では、とくに何かの議論ということになりますと、
言葉以外のものは認められません。
 こうした、西洋流のものの考え方は、ソクラテスの問答法にその起源を発している
と考えられます。
 さて、ソクラテスには、プラトンとクセノポンという弟子がいたと、前に説明しま
した。
 ここで、クセノポンについて少しだけ説明します。
 クセノポンは軍人であり、『アナバシス』という、敵中横断何百キロ、というよう
な作品も残しているのですが、教育論も書いています。
 クセノポンの教育論で重要なのは、「家庭科」の意義を初めて見出したことであり
ます。
 一口に家庭科といっても、さまざまな分野がありますが、クセノポンが注目したの
は、被服とか調理ではなく、「家庭経済」とか「育児」といった分野でした。
 すべての家庭が順調に発展することが、国家の発展につながっていく、ということ
で、他の学者たちが国家→家庭という視点で教育を論じているのに対し、家庭→国家
という、逆の視点で論じているところに、クセノポンの独創性があります。
 これは、学問の世界に閉じこもっている他の学者たちでは、なかなか考えつかなか
ったことで、軍人としてさまざまな経験をつんだことが、実践にもとづいた理論を考
え出すきっかけになったことでしょう。
 クセノポンが「家庭科」ないし「家政学」という意味で使った、oikonomo
(オイコノモス)という言葉は、現在の英語のeconomy(エコノミー)、つま
り、経済という言葉の語源になっているくらい、家庭の経済というのは重要視されま
した。
 さて、家庭科というと、今は高校でも男女とも必修なのですが、私が高校生の時は、
男子校ということもあり、家庭科の授業はありませんでした。
 はるか昔に見た、「おれは男だ」というテレビドラマでは、主演の森田健作が、女
子に混ざって、家庭科の授業を受けていました。
 すごく進んだ考え方だと思いました。男子は、汚れ物を洗うんです。
 なぜかというと、センタク(洗濯・選択)科目だったのです。(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その16 ソクラテスは問答の達人だった 

 ソクラテスという人は、有名な人ですが、謎が多い人です。
 はっきりしているのは、紀元前399年に裁判で死刑の判決を受け、ドクニンジン
の汁を飲んで死んだ、というぐらいのものです。
 というのも、ソクラテス自身は本を一切書かなかったからです。日記、手紙なども
残されていません。そこで、ソクラテスと同世代の人やソクラテスの弟子たちが書い
た本から、ソクラテスの思想や行動を読み取らなければなりません。
 同世代の人というのは、アリストパネスという喜劇作家であり、また、弟子は大勢
いましたが、まとまったものを書いたのは、プラトンとクセノポンの二人ということ
になります。
 アリストパネスの書いた作品で『雲』というものがあり、喜劇の登場人物としてソ
クラテスが出てきます。
 これはソクラテスを風刺的に描いているもので、劇中では、ソクラテスは雲に乗っ
て動き回り、霞を食べて生きる仙人のような奇人として扱われており、信頼性に乏し
いです。
 ただ、この劇が上演されたとき、観客たちはみな、実際のソクラテスの行動を知っ
ていたようですから、当時のアテネでソクラテスが有名人であったことは間違いあり
ません。
 続いて、弟子の一人、クセノポンですが、この人は軍人でもありまして、ソクラテ
スのことをもっとも忠実に書いている、とされていました。
 しかし、クセノポンがソクラテスについて書いたのは、『ソクラテスの思い出』と
いう本一冊だけで、分量的に少ないので、詳しいことは、これだけではわかりません。
そこで、プラトンの作品からソクラテスの思想を読み取ろうと、こういう流れにな
っています。
 プラトンの作品は、岩波書店や角川書店から翻訳が出ていますが、翻訳でも全十数
 巻にのぼる大量のもので、全ての作品が今日まで残っています。
 ただ、プラトンの場合、ソクラテスを神格化しているといってもいいくらい、師匠
に対して敬意を払っており、いや、払い過ぎといっても過言ではありません。
 プラトン自身の考えを、あたかもソクラテスが言ったことのように書いている部分
も多くあり、どこまでがソクラテスでどこからがプラトンか、という問題が出てきま
す。
 キリストにしても孔子にしても、当人は本を書かずに、弟子たちが師匠の考えをま
とめたという点では、ソクラテスと同じです。
 ただ、キリストや孔子の弟子たちは、師匠が言ったことと、弟子が言ったことをは
っきり分けて書いているんです。
 この点、師匠の考えと弟子の考えを分けてないということが、プラトンを通してソ
クラテスを見ていこうとするときの、最大の難問であります。
 ですから、「これぞソクラテスの教育論」というのは、実ははっきりしません。(
笑)
 はっきりしないのですけれども、プラトンの書いたことで、先にあげた他の二人、
アリストパネスとクセノポンの書いたことと共通するのは、要約すると次の3つと考
えられます。
 第一に、ソクラテスが若者の教育に関して、非常に関心をもっていたこと。
 これは疑いようのない事実です。ソクラテスが死刑になった理由は、「若者を堕落
させる教育をしている」ということだったからです。
 第二に、若者が受けるべき教育というのは、ソフィストが行ったような、立身出世
のためのものではなく、世俗からはなれた知の探求、つまり、哲学を中心としたもの
であるべきこと。
 第三に、教育の手法として、一方的に演説や講義をするのではなく、問答法と呼ば
れた、教師と生徒の対話を中心として教育を行うこと。
 となります。
「ソクラテスの問答法」はとても重要ですので、少し詳しく見ていくこととします。
 と、ここまでの話は、少し難しかったようです。
 これはすべて、ソクラテスが本を書かなかったからです。(笑)
 師匠たるもの、本を書かなくてはいけません。そして、聴講生たるもの、師匠の本
を買わなくてはいけません。(笑)
 日大の講師をしている圓窓師匠の本の宣伝をしているわけではありませんが。(笑)
 とは言うものの、実はそうなんです。(笑)
 とりわけ、男たる者よ。買いたまえ。
 男子の本買い(本懐)といいまして。(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その15 ソクラテスとナポレオンの関係 

 ソフィストたちの教育について、もう少しお話をいたします。
 弁論術、あるいは雄弁術とよばれた、話し方のテクニックを教えるためにどうした
かというと、まずは、師匠が行った演説の原稿を暗唱することから始まります。そし
て、師匠の演説を覚えることで、その中に使われている技法を覚えていくのです。
 たとえば、比喩とか例え話、こうしたことをどのタイミングで持ち出して、聞き手
の心に訴えるかとか、日本語でいう掛け言葉とか、言葉遊びとかいったものを、どの
ように演説に取り入れていくのか、そうしたことを学んでいきます。
 そして、実際に自分で演説の原稿を考え、師匠に直してもらって、演説の場へと出
て行くのです。
 当時、演説が重視されていたのは3つの場がありまして、政治の場、裁判の場、競
技弁論の場、ということになります。
 政治と裁判の話は前にしました。
 競技弁論というのは、早い話が弁論大会です。この弁論大会は、弟子たちにとって
大きな意味を持ちました。
 というのも、ここでよい成績を収めることは、政治家や弁護士になるための登竜門
として、大きなプラス材料になるばかりでなく、自分がソフィストとなって弟子を取
ることができる、という点でも、重要な意味をもったからであります。
 教師が、自分一代限りの技術として教育にあたったのではなく、後継者を作った、
あるいは、教師を作るための教育をした、ということはソフィストの功績として大き
なものです。
「人にものを教えただけでカネをとるなんて許せない」という意見が、のちの時代の
学者たちから出てきて、ソフィストというのは思想史上の悪者のように位置付けられ
てきましたが、わたしは、そんなことはないと思います。
「カネ」の話を持ち出して批難している学者というのは、貴族の客分として働かなく
ても食べていける人であったり、自分自身貴族であったりする場合が多いのです。
 教師という職業を世の中に認めさせ、教師で生計が立つようにし、さらに、後継者
の養成も行ったという点で、つまり、教師という職業を確立したことで、教育史上、
ソフィストたちは重要な意味を持っています。
 しかし、時代が下るにつれ、後継者たちの教育の内容は貧困なものになっていきま
した。だんだんと、お金目当ての「でも」教師が増えていったからです。
「授業料で一儲けできるから、教師でもやろう」と、そういう人たちに対して、敢然
と反対の声をあげた人がいました。
 ソクラテスです。
 たぶん、古今のギリシア人の中で、ソクラテスは最大の有名人だと思います。私も、
ご幼少の頃から知っていました。(笑)
 以前、野坂昭如さんがウイスキーのCMで変な歌を歌ってたんですよ。覚えていら
っしゃいますでしょうか???
(♪ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか。ニ、ニ、ニーチェかサルトルか。・・・・俺
もお前も大物だーっ)
 ですから、ソクラテスというのは、ウイスキーの銘柄かと思ってました。(笑)
 だって、ナポレオンというお酒もありますから。(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その14 沈黙は金 雄弁は銀 

 職業としての教師が誕生したのは、紀元前5世紀ということになります。
 それまでも、宗教家が教義を教えたり、あるいは、軍人が体育の教練をする、とい
ったことはありましたが、知育・徳育を本格的に教える教師というのは、それまでに
はいませんでした。
 紀元前5世紀は、アテネの黄金時代であり、政治的には民主主義が完成して安定し
た局面を迎え、経済的にも海上貿易を通じて莫大な利益をあげていました。
 そのアテネへと、各地の知識人たちが集まり、若者に知育・徳育を教える教師とし
て活躍しました。
 この教師たちのグループを「ソフィスト」といいます。
 ソフィストたちは自ら「自分は教師である」と言い、知育・徳育を総合した教育を
 高い授業料をとって行いました。
 その中心となったのは、演説を通じて、人に感銘を与え、対立する相手を説得し、
自分の意見を主張するための技法でした。
 民主主義の時代ですから、「偉い人になる」ためには選挙で当選することが必要で、
いかに大衆に訴えかける話術を身につけるのかが、当時の若者たちの課題でした。
そうした要求に見事に応えたのがソフィストたちです。
 高いお金を払っても、弁論術、あるいは雄弁術とよばれた、話し方のテクニックを
教わりたいという若者が絶えませんでした。
 この頃は、「話す」「訴えかける」「主張する」といったことが、知育・徳育の中
心として考えられていたのです。
「沈黙は金」という諺があります。これは、古代ギリシア時代からの諺です。
 でも、当時と今とでは、意味がまったく反対になっています。
 今は、「出るくいは打たれる」とか「触らぬ神に祟りなし」とか、自己中心的な主
張をせずに黙っていたほうがよい、という意味で使われます。
 でも、古代ギリシアでは違います。
「沈黙は金」の後に、「雄弁は銀」と続いていまして、ここが面白いところなのです
が、当時は、金よりも銀のほうが値打ちが高かったのです。
 ですから、「沈黙は次善の策で、堂々と意見を主張するのがよいことだ」とこの諺
は言っているわけです。
 当時は、民主主義の時代ですから、選挙のための演説や議会での発言など、政治の
分野で弁論術がもてはやされました。
 また、裁判制度も発展し、陪審裁判制度といって、裁判官と一緒に、民間から選出
された人も裁判にあたることになっていました。
 そのため、裁判で勝利を得るためには、陪審員たちに自分の主張を認めさせなけれ
ばなりません。陪審員たちは法律の専門家ではありませんので、発言の印象にどうし
ても左右されます。
 そこで、陪審員たちによい印象を持たせるような、話し方のテクニックとしての弁
論術が重要となり、弁護士はもちろん、一般の人も話し方のテクニックをこぞって習
いました。
 今の日本の裁判でも、民事事件では黙っているというのは、相手の主張を全面的に
認めたということになります。雄弁の伝統は生きているのです。
 さて、教師の話が続いておりますが、皆様は「先生」というと、どのようなイメー
ジをお持ちですか?
 私は小学校から大学まで、幸運なことによい先生に恵まれました。とくに印象深か
ったのは高校時代の先生です。
 あるとき、ソフトボール大会がありまして、先生も生徒に混ざって出場しました。
 で、1番バッターに出て、見事にホームラン。
「すごいですねー」
 という生徒の声に、
「これが先生(先制)のホームランだ」(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家 弥 助

その13 語り部=教師=芸人 

 さて、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』は、庶民にとっても、馴染み
深いものでした。
 というのも、ホメロスの作品を全て暗記し、各地を巡回して演じてみせる、「ホメ
ロス語り」とか「吟遊詩人」とか呼ばれる語り部たちがいたからです。
 語り部たちは、各地の豪族のもとに滞在し、物語を自在に演じることで暮らしてい
ました。
 長大な物語の、どの部分からでも話をすることが出来たそうです。
 それを、大人も子供も娯楽として聞いていました。娯楽なのですけれども、その中
に教育的な要素が多く含まれていました。
 語り部たちは、教師としての役割も果たしていたのです。
 庶民にとっての教育というと、たとえば職人の息子が父親から仕事を教わるとか、
娘が母親から家事を教わるといったように、生活のため、仕事のための、職業的な訓
練は多くなされていましたが、知育・徳育といったものを特別に受ける機会はなかな
かありませんでした。
 ですから、語り部たちが各地を巡回して口演してまわったのは、教育史上、画期的
な出来事でした。
 もちろん、語り部たちは自分のことを教師だと思っていたわけではなく、むしろ、
芸人だと思っていたわけですから、最古の教師というには難がありますが、教育史上、
無視できない存在であることは間違いありません。
 この語り部たちは、西洋で最古の芸人と言ってよいと思います。
 芸能、とくに語り芸の歴史をたどっていくと、西洋ではホメロスの語り部に行き着
きます。
 さて、話を少し急ぎましょう。
 語る、ということに注目した人を、とくに、教育的な面で考えていきますと、次に
紹介しなければならないのは、ピタゴラスです。
 ピタゴラスとは、数学の時間に直角三角形で紹介される、あのピタゴラスです。
 ピタゴラスは、もともと政治家でした。政治家として、言葉の持つ力、とくに、話
し言葉がもつ力に着目し、演説や講演の名人として絶賛されました。
 皆様には、意外に思われるかもしれませんが。
 この人も、家族や部族以外の第三者として若者の心に訴えた、という点では教師の
系譜として重要人物です。
 ただ、ピタゴラスの場合、職業としては政治家であり、後年、ピタゴラス教団、あ
るいはピタゴラス学派というものを率いるようになってからは、宗教家としての色彩
が強く、「教師」と言い切るには、やはり難点があるようです。
 ということで、「教師」という職業が生まれたのは、紀元前5世紀ということにな
ります。
 ピタゴラスは弟子たちを率いて宗教活動を行うかたわら、数学の研究もしていて、
いわゆるピタゴラスの定理を発見したのですが、この定理自体は、本人が発見したの
か、弟子が発見して師匠の名前を付けたのか、はっきりしません。
 はっきりしているのは、ピタゴラスとその一団は、ソラマメをタブー視して、絶対
に食べなかった、ということです。
 これも、なぜ食べなかったのか、に関しては謎です。当時、冷たいビールがあった
ら食べていたかもしれません。(笑)
 さて、私は、数学という科目、得意ではなかったですけれども、嫌いな科目ではあ
りませんでした。なぜかというと、先生がいい人で、居眠りしていても怒らなかった
んです。(笑)
 で、数学のときは寝るという癖がついてしまい、別の先生に代わっても寝てました。
 先生が怒りました。
「キミは何をしているのかね」
「はい、睡眠学習をしています」
 って言ったら、もっと叱られました。(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その12 トロイの木馬は実話 

 古代ギリシアの教育論は、社会的に尊敬しうるような人物を輩出することを、大き
な目的としてきました。
 その中でも、ごく古い時代に重要視されたのは、ギリシア神話であります。
 ギリシア神話は膨大な量がありまして、それをまとめたのはホメロスという人だと
推定されています。
 岩波文庫で翻訳が出ていますが、『イリアス』『オデュッセイア』という、それぞ
れ上下ありまして、文庫本で全4冊の長大な物語です。
 内容としましては、ギリシア世界が形成されていく途中での、多民族との戦いの記
録です。特に重要なのはトロイ戦争であります。
 トロイの木馬の話は、皆様もお聞きになったことがあるかもしれません。
 トロイという都市を攻略しようとしたギリシア軍は、強大な城壁の中に篭城してい
るトロイ軍をどうしても攻め落とせませんでした。
 そこで、一計を案じ、ギリシア軍は中に人の入った巨大な木馬を作りました。
 ギリシア軍が退却したとみたトロイ軍は、この木馬を城内に持ち帰りました。
 すると、木馬の中のギリシア兵がとつぜん飛び出し、それに合わせて外からもギリ
シア兵が城門を破って侵入し、トロイはあっけなく陥落した、と、こういう物語であ
ります。
 考え方としては、落語の[芋俵]や[つづら泥]と似ています。(笑)
 まあ、その他にもエピソードはいろいろあって、ここでは全部説明できないのです
けれども、ともかく、そうした戦いに勝利を収めた英雄たちの、勇敢さ、知謀、策略
といった、尊敬に値する点がそのまま徳育の中心となり、また、英雄たちについて詳
しく知る、英雄伝説を学ぶ、という点で知育の教育がなされました。
 今、「英雄たち」と言いましたが、ここは微妙なんです。神々と実在の人物が混合
しています。
 トロイ戦争自体、神々たちの戦いとして、架空の話と考えられてきたんですけれど
も、19世紀のドイツの考古学者シュリーマンが発掘をして、トロイが実在の都市で
あったことを確認しました。
 そのため、あながち、架空の話とも言い切れないのです。
 この点は、日本の「古事記」や「日本書紀」とも共通しています。
 神々や英雄がたくさん出てくるというのは、古代ギリシア世界が拡張していくにし
たがって、他の部族を取り込んでいくための手法だったようです。
 他の部族を取り込むためには、他の部族の宗教を利用するのも一つの手法でした。
「お前たちの神は、ゼウスの息子であった」ということにしてしまえば、支配民族は
 支配を正当化できるし、今までの信仰をそのままにして、その部族を取り込んでい
けたのです。
 その点、キリスト教が布教される際に「お前たちが信じていたのは悪魔だった」と
して、在来の宗教を覆していったのとは、ギリシア人の手法は大きく違いました。
 ドラキュラというのも、キリスト教からみると悪魔なんですが、地元ルーマニアで
は英雄なのです。
 さて、そういうわけで、ギリシアの貴族というのは、血統を遡って行くと、何々の
神に行き着く、というのを誇りとしておりました。
 そうした、血統や家柄だけを背景として尊敬を勝ち得ていた時代から、実質が備わ
っていなければ尊敬に値しない、という考え方が広まるようになったのは、教育の成
果であります。
 英雄の話が出てきましたが、皆様にとって、英雄、ヒーローというのは誰でしょう?
 猿飛佐助、黄金バット、月光仮面、いろいろな人がいると思います。
 私にとっては、ウルトラマンです。
 怪獣を攻撃するチーム、ウルトラ警備隊というのは、その頃から携帯電話を使って
ました。
 どこの携帯かなっていうと、au(英雄)だったんです。(笑)
                                   つづく
2003・3・28 UP










窓門会会員 作家  弥 助

その11 経過と結果 どっちを重視するか 

 体育の話がだいぶ長くなってしまいました。
 これから、「知育」と「徳育」の話に移ります。
 とはいっても、この二つは、古代ギリシアでは切り離して考えることは出来ません。
「知徳合一」という言葉があります。
 この言葉は、高校の段階では、ソクラテスの言葉として教えることになっていて、
大学入試で「知徳合一」と出てきたら、ソクラテスにしなければ点数をもらえないの
ですけれど、私の研究では、「知徳合一」は古代ギリシア教育論全体に共通する、大
きなテーマだと考えています。
 つまり、「ソクラテスだけがこの言葉を主張していたのではない」というのが、私
の研究です。
 古代ギリシアで「徳」といいますと、わたしたちが今日、イメージするような礼儀
作法とか人情、あるいは人の道とか道徳、といったものとは少し違います。
 そうではなくて「だれだれが偉い」と言う場合にその偉さのもと、あるいは根源と
なるものが、「徳」として考えられていました。
 たとえば「医者が偉い」といった場合に、なぜ偉いのでしょう?
 それは、お金持ちであるからではありません。美人の奥さんがいるからでもありま
せん。
 医者として必要な技術や知識を身につけているからこそ、尊敬に値するのです。
 落語に出てくるような医者、つまり、「何の商売をやってみても駄目だったから、
ひとつ、医者でもやってみるか」という「でも医者」は、ふつう、だれも尊敬しよう
とは思いません。
 社会の中で偉い人、尊敬に値する人というのは、何らかの知識や技術をもっている
のだ、というのが、古代ギリシア教育論の考え方です。
 単に「人柄がいい」とか「人情家だ」といっても、それだけでは古代ギリシアでは
充分なものとして考えられていません。
「人柄の良さ」を自分の長所として、他人を采配して何かものごとを成し遂げるとか、
他人のためになることをするとか、そうした結果が出るようでなければ評価されたり
尊敬されたりしません。
 このあたりが、日本的なものの考え方と西洋の考え方との、大きな違いといえるの
ではないかと思います。
 西洋では、結果がすべて、とは言い切れないものの、ものごとに取り組む「過程」
を重視する日本的な考え方とは違う考え方があるということを、ぜひ理解していただ
きたいと思います。
 日本では「頑張ったから」「努力したから」というだけで評価される場合でも、西
洋では「その努力に見合うだけの結果」が出せないと、評価されないことが多いよう
です。厳しい世界です。
 それはともかくとして、古代ギリシアの教育論としては、全般に「社会的に評価さ
れ、尊敬に値する人」を教育の目標としていました。
 なかなか、そういう人は出てこなかったんですけどね。(笑)
 日本に一時期、女の子に尊敬されるとか、もてるとかいう男の条件に「三高(さん
たか))」というのがありました。
 つまり「高身長」「高学歴」「高収入」という3つの「高」ですね。
 わたしも一応、二つくらいは条件を満たしているんですけど。(笑)
 周りに、そういう男、いました。さんたかの男が。でも、付き合ってた女のほうが
もっとすごかった。
 女の子はヨタカ(四高、夜鷹)だったんです。(笑)
                                   つづく
2003・2・10 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その10 体育で己の限界を知る 

 体育の意義はさまざまにありますけれども、身体の健全な発達ということだけでな
く、心とか精神の発達に必要なものだ、ということをお話しましょう。
 自分の限界を知り、それを乗り越えていくということは、他の教科よりも、とりわ
け体育において、生徒たちに自覚させることができます。
 過酷な訓練や苦しい練習を乗り越えて、今まで自分のできなかったことを身につけ
ていく、たとえば、それまで出来なかった逆上がりができるようになるとか、初めて
泳げるようになるとか、そういうときの喜びというのは皆様もご記憶にあると思いま
す。
 達成感というのは、体育を通して教えることが、いちばんわかりやすいのです。
 そして、そのためには、苦しいことでも逃げ出さず、最後まで努力をする。そうい
う辛抱強さを、同時に身に付けていくことができます。
 これは、ひと言でいうと、体育を通して、感情をコントロールする力をつける、と
いうことなのです。
 感情のコントロールということは、プラトンやアリストテレスが強く主張していま
す。
 プラトンに言わせると、感情というのは、欲望とか欲求と言い換えて使う場面もあ
りますが、ともかく、本能的な部分であり、これをコントロールする力は、後天的に、
教育を通じて身に付けなくてはならないものだ、ということです。
 感情のコントロールには、もちろん、理性が必要ですが、プラトンの説では理性だ
けでは不十分で、理性に合わせて実践する力も同時に必要になってくるのです。
 この、実践する力についてプラトンは、「魂の気概的部分」とか「勇気」という言
葉で表現しています。この部分を、体育によって鍛えるわけです。
 実践する、というのはなにも活動的なことだけではなく、我慢するとか耐えるとい
った、消極的、受動的なものも含まれます。
「こういうことをしたい」と思っても、よくないことだから我慢する、といったとき
に、「良いことか、悪いことか」ということは、たいていの人はわかるのですが、こ
うしたときに、良心の判断に従って、実際に出来るかどうかは、体育によって鍛えら
れた精神力にかかっていると、ギリシアの教育論では考えているのです。
 だから、体育は重要なんです。サボろう、なんてのはとんでもない話です。(笑)
 私の大学では、体育学部があるおかげで、体育の授業というのはとても充実してい
ます。
 1つの種目を1年間やるのですが、その中には、ヨット、ゴルフ、ライフル射撃、
ボウリングなど、珍しい種目もあります。
 私はゴルフを受講しまして、最終的には近くのコースを回れるまで、授業で練習し
ました。道具も全部学校で貸してもらいました。でも、キャディーさんは貸してもら
えませんでした。(笑)
 それで、自分たちでゴルフバッグを担いで回るのですが、これがなかなか疲れまし
て、しかも、OBが多いですから、かなり歩き回ります。
 先生に「キャディーがほしいです」。
 先生曰く「去年のOBもそう言ってた」(笑)
                                   つづく
2003・2・10 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その9 体育のサボリ方 

 難しい話をしているときより雑談のほうが文章も生き生きしている、と、これまで
の部分を読み返してみて思いました。(笑)
 毎回、落ちを付けるようにしてますので、これが評判で。(笑)
 まとまったら、私も本にして出そうかな。(笑)


 体育の教育上の意義としては、軍人になる、ということだけでなく、さまざまなこ
とが考えられます。
 まず、健康でなくては、なにごともできません。
 よく、「健全な精神は健全な肉体に宿る」といいますが、この諺自体はローマの時
代になってからのものなのです。でも、諺というわけではありませんが、同じような
意味のことを多くの学者が言っております。体力増進はいつの世も変わらないもので
す。
 よく、古代の話をしておりますと、何か現代とは違った「古代人」なるものがいて、
私たちとはまったく異なったことを考えていた、と考える方がいますが、大きな間違
いです。
 いつの世も、変わらない考え方とか気持ちがあります。
 たとえば、人を好きになるとか、受けた恩を返すとか、そうした素朴な心、これは、
いつの世でも誰でも理解できます。
 だからこそ、古典落語や時代劇が現在でも成り立つのです。時代が変わり、文明が
進んでも、人の心の奥にあるものは不変だ、と私は考えています。


 さて、プラトンは、体育の術をつかさどる体育教師を、医術を駆使する医師と対比
して、体育教師の方を上位のものととらえています。
 医術は病人を健康な人へと治し、体育術は健康な人を健康なまま保つことです。
 つまり、医術は悪を善に変えることですが、体育術は善を善に保つことです。
 悪を善に変えることよりも、善を善のまま保つことのほうが、より難しく、重要な
技術だとプラトンは考えています。
 今日の視点からこれを見るとすれば、予防医学という言葉が思い浮かぶところです。
 一見、派手な仕事よりも、地味な仕事の中に、プラトンは価値を見出しているので
す。
 同様の考え方は、アリストテレスにも見られます。
 プラトンは、さしあたり、体育の重要性として、「軍人になること」、そして、一
人の人間として、いつの時代でも重要な「健康を保つこと」の、二つを述べています。
 次に、より重要な役割が出てまいります。
 それは、先にも述べましたように、体育は、体育として独立して考えるべきもので
はなく、知育や徳育と密接なつながりがあるという話であります。
 また難しい話になってしまいました。(笑)ここで、ちょっと、体育の思い出話を
してみます。
 大学の体育の授業、私はサボるのが名人でして。(笑)
 どうしてかというと、授業の最初に出席をとって、あとは散らばって実技になるか
ら、このとき抜け出すとわからなくなるんで。(笑)
 それに気づいた先生が、今度は授業の終わりの時に出席をとるようになった。
 こうなると、今度は堂々と遅刻していけばいいということで。(笑)
 またそれに気づいた先生が、いよいよ、授業の最初と最後に出席をとるようになっ
た。
 で、仕方ないので、最初の出席をとったあと、最後の出席をとるまで、体育館の裏
で遊んでいたんですが、ついに見つかってしまいました。
「お前は煙管だな!」
「いいえ、マイルドセブンです」
 これ、若い人にわかるかなぁ。
                                   つづく
2003・2・10 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その8 04年のオリンピックに困ったことが 

 さて、ギリシアで体育というと、もちろん、古代オリンピックのことを思い起こさ
れることでしょうね。
 今日のオリンピックでは、聖火というのものがアテネで採火されて、各地をリレー
されます。
 また、開会式の選手入場では、オリンピック発祥の地ということに敬意を表して、
ギリシアの選手団が最初に入場します。
 その後、アルファベット順に各国が入場して、最後に開催国が登場することになっ
てます。
 次回の夏のオリンピックは、2004年、ギリシア・アテネオリンピック。
 私が少し心配しているのは、その年のアテネオリンピックでは、ギリシアの選手団
は一番最初に入場するのか、開催国として最後に入場するのか、はたまた、最初と最
後に分割して入場するのか、ということです。(笑)
 そのうち、問題になることと思いますが、こういうことは誰も心配していないよう
ですね。(笑)アテネ(あてに)ならない、という理由もありまして。(笑)
 さて、古代ギリシアのオリンピックでは、すでに今日のオリンピックの種目のほと
んどが行われていました。
 もちろん、野球、サッカー、バレーボールといった球技は、近代以降に発達したの
で、そういうのはないですけど、徒競走、障害走、円盤投げ、水泳、重量挙げ、レス
リングなど、多くの種目が行われていました。
 レスリングで、グレコローマンというのをお聞きになった方も、いらっしゃるかと
思います。
 あれは、「ギリシア・ローマ式レスリング」という意味で、当時のやり方では、手
で相手の足に触れてはいけない、というルールがあって、それを今日でも引き継いで
いるのが、グレコローマンという レスリングです。
 今日でもそうですが、オリンピックというのはスポーツの一大祭典であると同時に、
政治や経済的にも影響力が大きいものでした。
 オリンピック開催期間中は戦争が停止されて、その間、政治家同士の密談や駆け引
きが行われていました。
 また、ディオゲネスという作家の伝えるところでは「オリンピックには三種類の人
が集まってくる。選手と観客、それに物売りだ」ということになっております。
 とはいいましても、当時は、参加できるのは男だけで、女の人や奴隷は参加できな
いばかりか、見ることも出来ませんでした。
 アテネの民主政治というのは、のちの時代の学者が政治の理想像として考えていた
こともありますが、奴隷制と女性蔑視によって支えられていたことが、オリンピック
というお祭りからも伺い知ることが出来ます。
 えーと、体育の教育上の意義をお話するはずが脱線して、オリンピックの話のみに
なってしまいました。(笑)
 オリンピックの雑談などして、一銭にもならないのかというと、そうでもなく、五
厘(五輪)くらいにはなるかなぁと。(笑)
                                   つづく
2003・2・10 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その7 教育に体育も肝心 

 さて、脱線に脱線を重ねまして、こういうのを教師の符丁では、三河島と言いまし
て。(笑)
 まあ、一応説明しておきますと、昔(昭和37年5月)、三河島で脱線事故があっ
たという、それだけのことなのですけど。
 少し、教育の本論に戻って、真面目にお話を進めてまいります。(笑)
 教育という営みは、大きく分けますと、「知育・徳育・体育」に分類されます。
 分類されはするんですけれども、お互いに密接なつながりがあり、どれか一つだけ
が優先されるべきというものではありません。
 意外に思われるかもしれませんが、体育というのは、教育上、とても重要なもので
す。
 今日の日本で、小学校から大学まで、体育が必修になっているというのは、それな
りのわけがあるのです。
 体育の重要性というのは、これもまた、ギリシアの教育論からの影響を受けていま
す。
「スパルタ教育」という言葉を皆様はご存知のことと思います。
 このスパルタというのは、ギリシアの都市の名前です。
 古代ギリシア世界では、ギリシアという中央国家があったわけではなく、一つ一つ
の都市が独立してポリス、つまり、都市国家というものを形成していました。
 このポリスというのは、広さでいうと平均して、今の日本の市町村とか東京都の区
にあたるくらいの広さで、その範囲内で政治を行っていました。
 イメージとしては、戦国時代の日本の三河の国とか、相模の国とかいった国という
ものを想像していただければと思います。
 古代ギリシアのポリスの広さは、戦国時代の国よりも小さいのですが、統一した政
権がなく、各国で独自の政治を行っていたという点では、対比して考えることができ
るかと思います。
 あるいは、「ヨーロッパ」というのが国の名前でなく地方の名前で、その中にドイ
ツとかフランスとか、独自の政治をしている国々があるように、「ギリシア」という
地方の中に、アテネとかスパルタとかテッサリアとか、独自の政治をしている都市が
あった、というように考えていただければ、ポリスのイメージがつかめるかもしれま
せん。
 日本の戦国時代のような、全国統一を目指す国、あるいは、信長とか秀吉、家康と
いった、卓越した武将というのが、古代ギリシアではついに現れず、そのことが、の
ちには、ギリシアがローマに対して没落していく一因となりました。
 さて、全盛時代のギリシア、つまり、紀元前5世紀には、アテネとスパルタという
2大強国が、時には同盟し、時には戦いながら、お互いを牽制しあって存続していま
した。
 全ギリシア統一の野望は持たないとしても、各国とも、いつ戦争が起こるかわから
ないわけですから、軍備が必要です。
 当時のギリシアでは、武器は国が用意するのではなく、自分で用意しなければなり
ませんでした。
 ですから、前にも述べましたように、軍人になれるのは貴族に限られていました。
 そういうわけで、貴族というのは、まず、軍人としての素質を養うために、徹底し
た体育の訓練を受けました。
 今日でもスパルタ教育というと激しい訓練というイメージがありますが、当時のス
パルタの体育はとても厳しいものでした。
 というのも、スパルタというのはギリシアの中では珍しく、農業がある程度出来る
場所で、作物がありますから、他国の侵入をもっとも受けやすい土地柄だったからで
す。
 ですから、自分たちの国を守り抜くために、強力な陸軍が編成され、過酷な訓練を
受けていました。
 当時の戦争というのは、一昔前の学生運動を思い出していただけると、イメージが
湧くのですけれども(笑)、まず両軍が展開して、盾を使って押しくらをやります。
で、隊列が乱れたところを騎馬隊が攻め込む。
 騎馬隊は、戦車を牽いていました。
「ベンハー」という映画をご覧になった方には、あの映画自体はローマが舞台ですが、
騎馬隊のイメージは湧くかと思います。
 そして、相手を殺すというよりも、捕まえて捕虜にして、先にも述べましたように
奴隷にするのが主な目的となります。
 そういうわけで、軍人になるための体力強化というのが、体育の起源であることは
間違いありません。
 でも、体育をそうとばかりとらえるのは、やや短絡的です。
 もう少し体育の話をつづけることにします。
 体育の話、難しいですか?
 苦痛に感じられる方もいるのではと心配です。
 体育で苦痛に感じることを「タイィクツウ(退屈、体育痛)」といいます。(笑)
                                   つづく
2003・2・10 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その6 ラテン語が落語につながる? 

 国語というのは、どの国にとっても大切なことで、国語を学ぶというのは、初等教
育だけでなく、大学に至っても必要なことです。
 古代ギリシアの場合は、国語というと、前に述べましたようにギリシア語ですね。
 古代ギリシアは、だいたい紀元前5世紀に全盛を迎えるのですが、そのころのヨー
ロッパでは、といってもまだ地中海沿岸に限られるのですが、ギリシア語が共通の言
語でした。
 いくつかの方言も出来てはいましたが、アテネで話されていた言葉が共通語として
用いられていました。ギリシア語の影響力というのは、のちの時代のヨーロッパの言
語にとって、とても大きなものです。
 ギリシアが滅んだのちには古代ローマが全盛を迎えますが、古代ローマの国語、つ
まりラテン語とともに、ギリシア語はヨーロッパの言語の基礎となりました。
 古代ローマが全盛のころは、話し言葉はラテン語で、書き言葉はギリシア語だった、
というくらい、全ヨーロッパの共通語として用いられていました。
 ちょっと脱線してしまいますが、ラテン語のお話もしておきましょう。
 ラテン語は、もともとはローマ地方の一方言にすぎませんでした。
 しかし、古代ローマ帝国の拡大とともに、使われる地域が広がっていきました。
 他の民族を支配するときには、言葉を強制することから支配力を強めていく、とい
うのが、いつの時代でも権力者の用いる手段です。
 太平洋戦争のとき、南方を占領した日本軍が、現地の子供たちに、「サイタ サイ
タ サクラガ サイタ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と、日本語を教えて
いたことは皆さんもご存知ではないでしょうか。
 今でも、日本が占領していた地域のお年よりの中には、日本語のわかる人たちがい
ますね。悲しい歴史です。

 そういうわけで、ローマの発展とともにラテン語が広まったわけですが、さて、古
代ローマが弱体化して、分割される時代になってきますと、言葉も地方によって方言
化していき、現在のフランス語、スペイン語、イタリア語などに分化していきます。
 英語やドイツ語は、もともとはラテン語とは関係なく成立したのですが、外来語と
してラテン語の単語を多く取り入れました。
 そういうことで、現代国語と古文という関係でとらえますと、現在のヨーロッパの
ほとんどの言語にとって、ラテン語は古文にあたります。
 ギリシア語は、さしずめ、漢文というところでしょう。
 わたしたちが中学・高校時代に古文・漢文で苦労したように、ヨーロッパの中学生
・高校生は、ラテン語とギリシア語に悩まされました。(笑)
 日本の古文みたいに動詞の活用というのがあって、変化表を丸暗記させられるんで
すよ。動詞だけでなく、名詞や形容詞にも変化があって、それを覚えるのは大変です。
 受験では、日本の古文・漢文と同様に試験科目になっていて、必死になって覚えま
した。
 とはいっても、今日ではラテン語は死語、つまり話されない言葉になってしまいま
した。
 ギリシア語のほうも、古代ギリシア語と現代ギリシア語では文字は一緒ですけれど
も意味はだいぶ違っています。
 そこで、最近では、「役に立たない古代ギリシア語やラテン語を受験科目にするの
はおかしい」という意見が出てまいりました。
 まあ、私にしてみると、こういう意見のほうがおかしいと思うのですが、イギリス
にしてもドイツにしても、試験科目からはずす動きも出ています。あるいは、必修科
目ではなく選択科目にするというところもあります。
 その点、フランスは国語にうるさいですから、古文・漢文としてのラテン語・ギリ
シア語をきっちりやってます。
 私も「ラテン語も出来るんだぞ」というところを皆様に少しだけお見せします。
「ラテン(古典)落語」をするわけではありません。(笑)
 ラテン語で「三遊亭 圓窓」と書いてみましょう。
 Sanyuutei Ensou
 はい。できました。(笑)
 実は文字は英語と一緒なんです。(笑)
 他に書いてほしいという方がいらっしゃいましたら、すぐお書きしますよ。(笑)

つづく
2002.12.15 UP









窓門会会員 作家  弥 助

その5 奴隷が家庭教師に

 難しい話が続きましたので、少し目先を変えてみましょう。
 教育というと、切っても切れないものに、「学校」というものがあります。
 日本で学校制度がいつできたのかと申しますと、明治5年、学制の発布によって、
小学校、中等学校、大学が設置されたのがそもそもの起源です。
 中等学校が実際に開校したのは、小学校や大学とくらべると、若干遅かったようで
すが、まあ、ほとんど同時といってもいいでしょう。
 さて、この学校制度は、もちろん西洋の制度をほとんどそのまま輸入したものです。
 では、西洋でも、小学校、中等学校、大学が同時にできたかというと、そうではあ
りません。最初にできたのは、大学です。それから、小学校、中等学校、幼稚園の順
に整備されていきました。
 少し意外に思われるかもしれませんね。
 大学の起源は、古代ギリシアです。
 最古の高等教育機関としては、プラトンが紀元前4世紀に設立したアカデメイアと
いう学園が引き合いに出されます。
 よく、学究的、学問的なことを「アカデミック」とか「アカデミー」といいますが、
この言葉は、プラトンのアカデメイアに由来しています。アカデメイアのことについ
ては、あとで少し触れます。
 また、アカデメイアについて詳しく知りたい方には、講談社学術文庫の『プラトン
の学園アカデメイア』(廣川洋一著)をおすすめします。
 これをお読みになるとたいていのことはわかりますので、詳しく知りたい方はぜひ
お読みください。
 さて、古代ギリシアには小学校という制度がなかったというと、不思議に思われる
方もいらっしゃるかもしれません。
 では、子供たちは勉強しなかったのかというと、そうではありません。
 今でいう小学校や中学校の段階の学問を教える、家庭教師がいたのです。
 この家庭教師というのは、身分としては奴隷でした。
 これも皆さん驚かれると思います。


 奴隷という言葉からふつう想像されるのは、アメリカのリンカーンが奴隷解放宣言
を出した、ということだと思います。
 アメリカの開拓時代の奴隷というのは、主にアフリカ大陸からつれてこられた、綿
花の摘み取りという重労働をするための人たちでした。
 古代ギリシアの奴隷というのは、もちろん重労働のための奴隷として、銀山で働か
されていた人たちもいましたが、一部には頭脳労働のための奴隷もいました。
 これは、借金の支払いができなくなると、まあ、今で言うと自己破産なんですが、
一時、市民権を奪われて、身分としては奴隷になるのです。
 でも、もともとは市民として読み書きのできる人ですから、家庭教師として豪族の
家の客分になって、子供の世話をしながら、市民権の回復を待っていた、と、そうい
う人がたくさんいたのです。
 今、名前の出たプラトンという人も、父親が競馬狂いで、やたらと借金を残してお
亡くなりになったものですから、一時的に自己破産しなければならなかった。そのた
めにイタリア方面に逃亡していたという話もあります。
 一時期は奴隷の身分になったのですが、見かねた豪族が金を出して、市民権を復活
してやった、などという逸話も残っております。
 それから、戦争で捕虜になった人の中にも、高い教育を受けていた人もいました。
 紀元前6世紀ごろまでは、兵士として戦争に行くというのはお金持ちの市民だけで、
というのは、武器や鎧が買えないと戦争には行けなかったものですから、捕虜という
のは高い教育を受けている人も多いわけです。
 こうした人たちが家庭教師として市民の教育にあたり、さらに高度な教育について
は、学者たちが各地を巡回して教え歩いたというのが、紀元前5世紀ごろまでの教育
のあり方でした。
 家庭教師が教えていたのは、ギリシア語、つまり、国語です。それから、簡単な算
数とか数学。当時でも、「読み書き算盤」を教えていたということになります。
 また、音楽の家庭教師とか、体育の家庭教師とかもいました。
 子供が学校に行くのではなく、学校が豪族の家にやってきてしまうのですね。
 でも、わたしは、家に教師が来るよりも、学校に行ったほうがいいと思うんです。
「学校(日光)を見ずに結構というな」と言われておりますから。(笑)

つづく
2002.11.19 UP








窓門会会員 作家  弥 助

その4 聖書はラテン語で書かれてあった

 さて、古代ギリシアのことを学ぶと、教育論にかぎらず、西洋の歴史、思想、風土
などを考える上で「発想の転換」というか新たな視点が出てくると思います。
 そのことを説明しておきましょう。
 みなさまの中には、教職についておられる方や、そうでなくとも、教員の資格をと
ったという方もいらっしゃると思います。
 教員の資格をとるにあたっては「教育原理」とか「教育基礎論」というような科目
を受講することが必要です。
 そうした授業の中で、教育の歴史とか教育哲学という分野の学習をすることになる
わけですが、今まで、多くの大学では「ギリシア教育論」は軽んじられてきました。
 大学で使う「西洋教育史」の教科書のなかには、「ギリシア教育論」にほとんど触
れず、教育史というのが、あたかも、中世のコメニウスという学者から始まったかの
ような記載のものも、かつてはありました。
 コメニウスという人は、『世界図会』という本を書きました。これは絵入りの教科
書としてはほとんど最古のものです。
 ですから、コメニウスは教育論のなかでも最重要人物の一人であり、コメニウスに
ついて研究することは大切なことです。
 しかし、このコメニウスという人の思想の背景には、キリスト教の価値観が深く根
ざしています。
 キリスト教の影響力というのは、今日でも西洋諸国では多大なものであり、キリス
ト教を無視して西洋を理解することはできません。
 アメリカのアフガニスタン侵攻が、一方では非人道的な振る舞いとして非難されて
いるのに対して、他方でキリスト教から見れば異教徒であるイスラム教を攻撃する聖
なる戦いとして容認される、そんな雰囲気もヨーロッパに出てきたことは、最近のニ
ュースなどからご存知だと思います。
 キリスト教を異教徒に対して布教することは、中世でも、たとえば十字軍の戦いに
見られるように、神の教えに従った正しい行いだと考えられていました。
 それと同時に、神の言葉を知ることで自らの精神を高めていく、これも、中世以降
のヨーロッパでは重要なこととされてきました。
 そのためには聖書を熟読しなければなりません。
 しかし、聖書というのは、かつては、すべてラテン語で書かれておりました。
「宗教改革」という言葉は、世界史の授業でおなじみだと思いますが、ルターの業績
の中で最大のものは、「新しい宗派を作ったことではなく、聖書のドイツ語訳を作っ
た」ということなのです。
 神の言葉、あるいはイエスや使徒たちの言葉を、自国語に翻訳するというのは、恐
れ多いことであり、また、教えをねじ曲げてしまう、ということで、タブーだったの
です。そういうことで、15世紀までの聖書はラテン語で書かれていました。
 そこで、ラテン語を教えることが布教の第一歩ということになり、宗教改革以前の
宗教家や教育者たちは、いかにラテン語を教えればよいかということに苦心してきま
した。
 そうした背景で生まれたのが、絵入りのラテン語教科書、コメニウスの書いた『世
界図会』だったのです。
 今お話しましたのは、中世のコメニウスの例ですが、コメニウスに限らず、それ以
降の西洋教育史に登場する人物というのは、あえて名前を二、三あげれば、ルソーと
かカントとかペスタロッチという学者たちがおりますが、みな、背後にキリスト教の
思想をかかえているわけです。
 では、と、ここからが発想の転換ということになりますが、キリスト教がない世の
中では教育というものはどうあるべきなのか、ということを考えるのも、視点の転換
として重要ではないかと思います。
 これはなにも、キリスト教がよいとか悪いとかという議論をしているわけではあり
ません。
 キリスト教抜きには西洋のことが考えられない、という「常識」にとらわれず、逆
に、キリスト教のない西洋というのを考えてみる、という、逆転の発想であります。
 キリスト教がどう古いといっても、イエス・キリストの生まれる前は、さすがに広
まってはいませんでしたから、紀元前のヨーロッパ、つまり、古代ギリシアを考えて
みようと、まあ、私なりの考えではこういう結論に至りました。
 少し難しかったでしょうか。
 たぶん、皆様、「イエス」っておっしゃると思うのですが。

つづく
2002.11.12 UP








窓門会会員 作家  弥 助

その3 歴史の中のジンメイ救助

 教育論の中で、ギリシアを本格的に研究する人が少ないというのは、とても残念に
思っています。
 よく言われるのは、「そんな昔のことを調べても、今の日本に通用しない」という
ご意見であります。
 いささか、自己弁護的になるかもしれませんが、こういう意見は間違っております。
「役立つ学問だから、する」「役立たない学問だから、勉強しない」と、こういう考
え方が、今の世の中には溢れております。
 私は、あえて言わせていただくとすれば「役立つも役立たぬも、その人の姿勢にあ
る」と、そのように考えております。
 たとえば、経済学を勉強してその道の大家になれば、株や相場で儲けられるとか、
遊んで暮らせていけるとか、そんな話は聞いたことがありません。
 学問を「役立つ」とか、「役立たない」とかという点から判断するのは短絡的です。
 そもそも、発想というのは思いもかけないところから生まれるものです。
 といって、まったく何もないところからは何も生まれません。
 すぐれた発想というのは、今まで無関係であったことをいくつか組み合わせること
から、生まれてくるのだと思います。
 たとえば「電話というものは、家や会社にあるものだ」という考え方、これは30
年前なら常識だったんです。が、この考えに凝り固まっていたとしたら、携帯電話が
日の目を見ることはなかったでしょう。
 電話とはまったく無関係な、腕時計とか携帯ラジオというものを組み合わせること
によって「電話=線でつながっているもの」という常識をくつがえして、今日の携帯
電話が生まれたのだと思います。
 学問にしても「教育論は今現在のことだけを考ていればよい」というのはいかがな
ものかと思います。
 古い時代の教育方法の中に、何か優れたものがあるかもしれません。
 時代の移り変わりの中で、忘れられていったことを見直してみる、ということも、
大きなヒントになります。
 古代ギリシアというのは、素朴な考え方の宝庫といってよいくらい、すぐれた考え
方が多く湧き出ております。
 そのすべてをお話することはとてもできませんが、有名な学者たちの考え方を、い
くつかお話してみたいと思っております。
 これから、人名などもたくさん出てまいります。
 でも、私は「歴史を勉強するときに、人名を全部覚えなくともよい」と生徒さんた
ちに言っております。「人名はとりあえず重要な人たちだけ覚えておけばよい」と、
普段申しております。
 歴史の嫌いな生徒さんたちも、人名を覚えなくていいというと、なんだか救われる
気持ちになるようですね。
 これを人名救助と申します。(笑)

つづく
2002.10.21 UP









その2 アルファベットは そもそも

 さて、みなさまの中には、ギリシアに旅行なさった方もおられるでしょうね。
 遺跡をたくさん見てきたぞ、とか、灼熱の国でワインがうまかったぞ、という方も
いらっしゃるでしょう。
 旅行された方はすぐお気づきのことと思いますが、ギリシアの、とくにアテネの案
内標識というのは、ギリシア語と英語が並べて書かれているのが多いです。
 たとえば「アテネ10km」とギリシア語で書いてある下に、英語でATHENS
と書いてあります。
 ちょうど、日本の交通標識が「新宿10km」と書いてある下に、ローマ字でSH
INJUKUと書いてあるようなものです。
 今、ギリシア語で書いてあると申しましたが、ギリシア語というのは英語やフラン
ス語とは違った、独特のギリシア文字という文字で書かれます。
 ギリシア文字のいくつかは、みなさんご存知のことと思います。
 ほら、中学・高校時代の、楽しい楽しい数学や物理の時間が思い出されるでしょう
?(笑)
 まず、円周率でπ(パイ)というのが出てきました。
 それから、三角関数で角度を表すのにθ(シータ)というのも出てきたと思います。
 電気の抵抗のところではω(オーム、オメガ)というのも習いました。
 α(アルファ)β(ベータ)γ(ガンマ)などというのも、比較的なじみ深いので
はないかと思います。
 ちなみに、英語で文字のことを「アルファベット」と呼ぶのは、ギリシア文字の最
初の二つの文字、アルファとベータを続けて発音したものです。
 日本語で、仮名文字のことを「いろは」というのと同じ感覚ですね。
まあ、このようにして、文字が英語と違うものですから、欧米人にしてもギリシア語
というのは難解な言語とされています。
 英語で「ギリシア語みたいだ(It is Greek.)」というと、「わけがわからない。
ちんぷんかんぷんだ」という意味になります。
 そういう、ギリシア語というのを「少しはできるんだぞ」というところを見せてお
かないと、私の株が上がらないものですから(笑)、ためしに、ギリシア文字で「三
遊亭圓窓」と書いてみます。
 Σανυτει Ενσου
 ほかに、ご自分の名前をギリシア語で書いてほしい、という方がいらっしゃいまし
たら、申し出てください。(笑)すぐにサインいたします。(笑)

つづく
2002.10.10 UP









その1 キーワードは星座


 連続講談、あるいは連続漫談になるかな。
 しばらく書いてみようと思ってます。
 退屈な話が続くことと、書く本人も覚悟しておりますので、お読みになりたい方は
覚悟してください。(笑)
 内容はと申しますと、最初はちょっと難しいです。
 で、中ほどはやや難しくて、おしまいのころはとっても難しくなります。(笑)


 ギリシア教育論なんですが、題して”ギリシアと落語の接点”ということで、お話
をさせていただきます。
 ギリシアと落語に接点なんてあるのか? そもそも、なんでギリシアなんだ?
 と、皆様、疑問に思うでしょうが、だんだんとお話を進めてまいりますので、どう
か最後まで気を確かにもって(笑)、お付き合いいただければと思います。


 私がお話いたしますギリシアというのは、紀元前1000年頃から紀元前400年
頃のことでございます。
 たんに「ギリシア」というよりは、「古代ギリシア」と、お断りしておいたほうが
よいかもしれません。
 そんな大昔のこと、何も知らないよ、とおっしゃる方もいらっしゃいましょうが、
意外と、毎日のテレビや新聞で出てくることもございます。
 天気がよければ、夜になると見えてまいります、星空の、星座でございます。
 おうし座とか、ふたご座とかいう、あれです。
 占いなど気にしない方でも、12星座の一つぐらいはご存知でしょう。最近では1
3星座という占いも出てまいりましたがね。
 星座そのものは、ギリシア時代よりもっと古く、古代メソポタミアの羊飼いたちが、
夜の戯れに、星々を結んでさまざまな動物を天に描いたことから始まります。
 しかし、今日の星座の大元は、古代ギリシアの神話や伝説に根付いており、のちの
ローマ時代の神話が付け加えられて、今に至っております。


 星座の伝説というのも、これはこれで調べてみると面白いものです。
 私はご幼少の頃(笑)、熊谷駅の近くのプラネタリウムによく行っておりまして、
そこで聞かされる星座伝説やギリシア神話には、なんとなしに、畏怖の念とでも申し
ましょうか、日本の昔話とはまた違った、一種の感動をもったことを、今さらながら
に覚えています。
 大神ゼウス、ゼウスの妻ヘラ、太陽の神アポロン、海の神ポセイドンなどなど、ギ
リシア神話の神々の名前をどこかで耳にしたという方も、多いのではないでしょうか。
 今回は、教育論ということで、まあ、少しだけ神話の紹介をいたしました。星座の
お話はまた重要で、これだけでも落語との接点が見えてまいりました。
 ギリシアと落語、どちらもセイザ(星座、正座)に注目する、ということで。


つづく
2002.10.3 UP