圓窓五百噺ダイジェスト(え行)

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江島屋騒動(えじまやそうどう)/蝦夷訛 熱き思い(えぞなまり あつきおもい)


圓窓五百噺ダイジェスト 132[江島屋騒動(えじまやそうどう)]

 芝日陰町に江島屋という四間間口で袖蔵付きの大きな古着屋があった。
 そこの番頭の金兵衛が商用で下総の鎌ヶ谷から八幡へ回り、これから江戸へ入ろう
という所で道に迷い、折悪しく大雪になった。原中に一軒家の灯。一夜の宿を無心し
て中へ入った。
 そこは、六十前後の恐ろしげな老婆の一人住まい。金兵衛は粥を馳走になり、次の
間で横になって寝込んだ。
 きな臭い匂いに目を覚まし、障子の破れから覗いて驚いた。
 老婆が縫い模様の切れ端を裂いて囲炉裏にくべると、なにやらぶつぶつ言いながら
火箸で灰に字のようなものを書き、その字を見詰めながら火箸でグーッと何度も何度
も突いているのだ。
 金兵衛に見られたことを知った老婆は、その謂れを話し始めた。
「十七歳の娘の里と二人暮しをしておりました。名主の息子の源太郎が里を見初めた
ので、嫁にやることにしました。支度金を五十両貰ったので、江戸へ出て着物やら道
具を買い、先々月の三日、馬に乗って嫁入りをしました。が、途中で雨に降られ皆が
びしょ濡れになりました。名主の家で披露目。嫁の里が村の衆に酒の酌をして回りま
した。里が立とうとしたとき、誰かがその裾を踏みました。里の着物の腰から下が抜
けるように取れてしまったのです。その着物は如何物(いかもの)で縫ったものでな
く糊付けだったのです。満座の中で恥ずかしい思いをした里は神崎(こうざき)の土
手から身を投げました。村にいられなくなったあたしは、この藤ヶ谷にきて田畑守(
たはたもり)をしております。この片袖は里が逃げ出すときに木の枝に引っ掛けて、
枝に残されたもので里の悔しさのこもった形見です。許せないのは如何物を売りつけ
た古着屋。毎晩、こうして片袖を裂いて古着屋に恨みをと、祈っております。古着屋
の主の目を潰してやろうと、灰に目という字を書いて、こうして突いております」
 聞き終えた金兵衛が「その古着屋とは?」と問うと、老婆は「江戸の芝日陰町の江
島屋ですよ」と言う。
 びっくりした金兵衛は慌てふためいてそこを飛び出し、二日ほど掛けてようようの
思いで店へ戻った。
 入口に簾が掛かっていて忌中の文字が……。こわごわと店に入って聞かされたのが、
「昨日、お内儀が急死。通夜の最中に小僧が穴蔵に落ちて死亡しました」ということ。
 金兵衛は藤ヶ谷の一件はついつい言い出せず、四十九日。夜の四つ半(11時)。
主に言われて蔵に入って着物の整理をしていると、模様物の積んである向うにうずく
まっている者がいる。
 びしょ濡れで水が滴れ落ちて、片袖の千切れた振袖を着た娘が、鬢のほつれ毛が襟
にまとい掛かり、まるで雨の中を歩いてきたような姿。さも恨めしそうに金兵衛のほ
うをジーッと見詰めている。
 キャァ−ッと悲鳴を上げた金兵衛は蔵から飛び出して、主に藤ヶ谷の一件を話した。
 ところが主は強気で、「そんなことでこの江島屋が潰れるわけはない。あたしは驚
きませんよ」と言い放った。
 最後に金兵衛が手元の火箸を持って「その老婆は灰に目という字を書いて、こうし
て火箸でその字を突いておりました」とやると、途端に主は目を押さえて悲鳴を上げ
た。
 親子の一念が通じたか、主の両眼から血が噴出し、まもなく江島屋も潰れてしまし
ました。

(圓窓のひとこと備考)
 この噺は三遊亭圓朝が明治2年(31歳)のころ創作した怪談話。演題は[鏡ヶ池
操松影](かがみがいけ みさおのまつかげ)といい、長編です。あたしは発端だけ、
高座に掛けました。
2007.3.13 UP




圓窓五百噺ダイジェスト 129[蝦夷訛 熱き思い(えぞなまり あつきおもい)]

 明治二年五月十一日、幕軍の春日左衛門の隊員は20人になってしまったが、五稜
郭近くの神山口で官軍を迎え討とうと再び陣取った。
 春日隊長は全員の前で室田に言った。「室田に頼みが三つある。ここを落ち延びて
『一同はこの地の草の露に消えた』と江戸表の両親や妻子に伝えるのじゃ。二つ目は
みなに伝えた最後でよいのだが、拙者二十一のとき、若気の至りで喜代という腰元を
懐妊させた。喜代は実家へ下げられ、女子を出産。しかし、産後の肥立ちが悪く喜代
は死去。やむなく、女子は東葛西の青戸村の国五郎という百姓へやったようじゃ。娘
は十か十一になっておるはず。娘を引き取って成人になるまで世話を願いたい。三つ
目は、使命をまっとうしたならば、町人になれ。我らのあとを追って死ぬなよ。三つ
の頼みの元手として三百両を持って行け」
 室田は懸命に断ったが、一同からも頼まれたので、しかと承知した。
 六里はあろうか、函館をめざし、やっとの思いで函館港を出帆して横浜へ着いたの
が、二年六月。すぐに東京に入って、同僚の約束を果たすべく、遺族を訪ねて回った。
同時に生糸を横浜の外国商社へ売り込む商いを始め、築地に住居を構えるようになっ
た。その頃、すべての遺族を探し回ったので、いよいよ最後の遺族、東葛西の国五郎
に会い、これまでの養育費という名目で二十両払い、十一歳になる春日の娘を引き取
った。名前は嘉代。
 室田は嘉代を我が子の如く可愛がり、嘉代も「お父さま、お父さま」と言ってなつ
いた。嘉代が十九になったときには、器量もよし、気立てもよし、教養もありで築地
小町と言われるほど世間の評判もいい娘になっていた。
 室田にとっては嘉代は自慢でもあり、誇りでもあったが、いつしか、嘉代を女と思
うようになっていた。室田に「男一人ではご不自由でしょう」と縁談をすすめる者も
いたが、「娘がおるので」と断わってきたのも、その現われの一つ。もちろん、嘉代
を嫁にやりたくもなかった。そのうちに、嘉代一人では外へ出さないようにして、必
ず自分が付いて行くという、異様な関係になった。
 室田はその頃から毎晩、酒を浴びるようになり、アル中に近い状態だった。
 明治十年、西南戦争が片付いた秋頃にかけて、コレラが流行り、金持ちは浮世を離
れた別荘へ引きこもった。畠野庄六もその一人。巣鴨の別荘に一家で引きこもり、懇
意にしている室田にも声をかけた。「別荘の離れが空いているから、しばらくはこっ
ちへ来て暮しなさい」と。
 室田は嘉代を連れてやって来て、別荘で暮した。ひと月たって、コレラも薄らいだ
ので、畠野は祝い方々、知人などを招いて広間で宴会を開いた。離れの室田のところ
にも声がかかったので、室田と嘉代は顔を出した。
 嘉代の噂をするささやきが聞こえる中、嘉代は交島という客が気になった。目を見
たとき、向うも見ているので、ドキンとした。
 室田が電話で席を立ったとき、二人は近づき、庭に出た。二人がやってきた庭の北
の隅。低い生垣で囲われている離れのような建物。室田と嘉代の住んでいる所だ。
 二人は中に入って、茶を飲んだ……。

 十月二十日。横浜から出港した九重丸という船の甲板には、交島と嘉代の姿があっ
た。
 交島「知る辺もない北海道で事業を始めるには、あたしを心から支えてくれる人が
必要なんだ。それが嘉代さんだ」
 嘉代「函館の峠下にある一行庵には討ち死にをした父の頭髪が葬ってある、と室田
が申しておりました。そこへお参りをして墓標を建てたいと思います」
 交島「実は、信州の長野に妻子が……」
 告白されて複雑な気持ちになった嘉代は、船から姿を消しました。
 交島は船員と共に船の中という中を捜し回ったが、行方がわからない。
 交島「これほど捜しても見付からないのは、思い余って海に身を投じたか……」
 交島は内ポケットから手帳を取り出し、中ほどのページを破り、万年筆を手にして、
「戻ってきておくれ」としたためた。紙を二つに折ると、それに思いを込めるように
押し頂くと、海に投げ入れた。

(圓窓のひとこと備考)
 イイノホールでの圓朝祭という落語会で演ったきり。もちろん、圓朝作品。長編の
発端だけなのだが、それでも長い。戊辰戦争の雰囲気を出したくて、坂本真理さんに
篠笛を入れてもらった。それも客席から。
2007.3.11 UP